占領下の苦悩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 11:27 UTC 版)
「ルクセンブルクの歴史」の記事における「占領下の苦悩」の解説
1940年7月29日、ルクセンブルクに隣接するドイツ国のコブレンツ=トリーア大管区の大管区指導者、グスタフ・ジーモンがルクセンブルク民政長官として民政を担当することとなった。 ジーモンは着任早々、公用語を全てドイツ語へ変更、フランス的なものの破壊を開始した。フランス語の授業は停止され、ルクセンブルク国民の姓名にいたるまでドイツ語へ変更された。そのためにバスクのベレー帽までが禁止される事態にまでいたった。ジーモンはゲルマン化の名の下、ルクセンブルクという国の解体を目論み、8月14日には「ルクセンブルク国」「ルクセンブルク大公国」という表現使用を禁止した。8月から10月にかけて政党の禁止、代議院と枢密院の廃止、ルクセンブルクの憲法および法律の停止を行い、最終的には行政委員会も廃止、ドイツの法制が導入されて事実上、ドイツへの併合状態に至り、最後には「ルクセンブルクはもはや存在しない」と宣言まで行った。 さらに文化面でもその活動は始まった。ルクセンブルクでは元来フランス文化が優位であったが、1934年に設立された「ドイツ文学芸術協会」(GEDELIT, Gesellschaft für deutsche Literatur und Kunst)が秘密裏にナチスとの協力関係を結んでいた。1935年、ダミアン・クラッツェンベルクが会長に就任したことにより、それまでドイツ伝統文化を宣伝するだけであった協会は、ナチスの宣伝も開始した。1940年6月、クラッツェンベルクはさらに「ドイツ国民運動」(VDB, Volksdeutsche Bewegung)を結成、ルクセンブルク人は人種的にも言語的にもドイツ人であると宣伝を開始、ルクセンブルクは祖国ドイツへ復帰すべきであると説いた。1940年8月の時点で600人が参加していたが、9月には6,000人にまで増加した。ただし、これは様々な圧力があってやむなく参加した人も含まれている。 翌年になるとさらにその圧力は強まり、ルクセンブルク国民の「ゲルマン化」が促進された。そしてヨーロッパ各地で連勝を続けるドイツ軍らの情報を聞くに及び、連合国の勝利を疑う者まで現れた。そのため1941年、ドイツはVDBへの参加者を7万人と発表、1941年10月に予定していた国勢調査においてドイツに有利な状況を作り出そうとしていた。この国勢調査はドイツにより誘導的なものとして、自らが属する国籍、使用する言語、属する人種に関する質問が用意されており、返答次第では逮捕することになっていた。しかし国勢調査の寸前、一つのメッセージ「dreimol Letzebuergrsch!」(3つの質問全てにルクセンブルクと書こう!)が国中を駆け巡ったため、国勢調査表の強制回収は中止されることとなった。この1941年10月10日の出来事で、「ゲルマン化」へ邁進するナチス・ドイツに対してルクセンブルク国民の間でナショナリズムが高揚することとなり、現在も10月10日は「国民連帯の記念日」として祝われている。 この国勢調査の失敗により、ナチスは別の手段による「ゲルマン化」の促進に方針を転換した。1942年にはルクセンブルクはコブレンツ=トリーア大管区に編入されて「モーゼルラント帝国大管区」とされた。8月23日にはドイツ系住民に対して徴兵制を導入し、徴兵者にドイツ国籍を付与するに至った。8月31日、ルクセンブルク国民らはこれに対してゼネスト (en) で対抗したが、ジーモンはこれに弾圧を加え、死刑や強制収容所へ送られるものも存在した。そしてジーモンは「ルクセンブルク人らに自発的にゲルマン化を選択させる」ことをあきらめ、徹底的な抑圧政策を実行、「ヒンツェルト」には強制収容所が設立された。そしてさらにルクセンブルク国民の30%をドイツ東部へ追放することも開始されたが、これは4000人ほどが追放された時点で終戦を迎える事となった。 ルクセンブルクにおける犠牲者数全人口(ルクセンブルク国籍)290,000(260,000)逮捕、もしくは強制収容所へ送られた者内、死亡者 3,963791 ドイツ東部へ強制移送された者内、死亡者 4,186154 抵抗活動へ参加した者内、死亡者 58957 政治的追放者 640 合計内、死亡者9,3731102徴兵制により10,211人がドイツ兵として徴兵され、東部戦線へ送られた。そのうち2,848人は故郷の土を踏むことがなかったが、徴兵された人々の34%が脱走を図った。脱走兵の家族らはドイツ東部へ強制移送され、捕らえられた兵士らも軍法会議で処刑されたが、一部の者はベルギーの抵抗組織「ベルギー白軍」やフランスの「マキ団」に参加、さらにイギリスにまで至り「ルクセンブルク中隊」に参加する者も存在したが、多くはルクセンブルク国内で戦争が終わるまで隠れ住んだ。 ユダヤ人たちはさらに過酷な運命をたどった。ヴィシー・フランスへ追放された者も存在したが、その多くが強制収容所へ送られ、ルクセンブルク国内に存在したユダヤ人3,700人のうち3分の1が犠牲となった。
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