占領下の凱旋門賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 18:36 UTC 版)
1941年にはロンシャン競馬場が再開され、凱旋門賞も開催されることになった。占領下で物資統制が行われていたが、パリジャンはカーテンで作ったドレス、木やコルクで仕立てた靴で華やかに着飾ってエレガントな雰囲気を守った。しかしこの年の凱旋門賞に集まったのはわずか7頭だった。これは創設以来2011年までの中で最少の出走頭数である。 本命になったのはマルセル・ブサックの古馬ジェベル(Djebel)だった。ジェベルは前年の英国ダービーで本命になるほどの実力馬だったが、戦局の悪化で渡英が叶わず、秋に代替競走のエッセ賞を勝っていた。相手は1歳年下のルパシャ(Le Pacha)とネペンシ(Nepenthe)で、両者はパリ大賞やロワイヤル・オーク賞で接戦を演じたライバル同士だった。ルパシャは初出走前に馬主を蹴り殺し、無敗のままグレフュール賞、オカール賞、リュパン賞を勝ち進んでフランスダービーも勝った。一方のネペンシはダービー卿の所有馬(ドイツ占領下のフランスではイギリス人馬主が許されないためフランス人の名義を借りていたで、ノアイユ賞に勝った。両者の初対戦はパリ大賞で、3/4馬身の僅差でルパシャが勝った。2度目の対戦はロワイヤル・オーク賞で、このときはゴールまであと30メートルのところでネペンシがルパシャをとらえたのだが、そこでネペンシの騎手が鞭を落とすミスを犯し、短頭差でルパシャが勝利をものにしていた。凱旋門賞のゴール前は、ロワイヤル・オーク賞と同じようにルパシャとネペンシの大接戦となり、短頭差でルパシャが勝った。ジェベルは離れた3着に終わった。ルパシャは1926年の凱旋門賞優勝馬ビリビ(Biribi)の子で、凱旋門賞としては初めての父子制覇となったが、ビリビは既にドイツ軍によってドイツへ連れ去られていた。 フランス国内では飼料が不足し、競走馬の生産も大きな規制を受けた。競走馬には1頭1頭配給票が与えられ、その数はわずか2100頭に限定されたため、ほとんどの競走馬は3歳で引退を余儀なくされた。しかし、ルパシャ、ネペンシ、ジェベルは翌1942年も現役を続行した。ネペンシはカドラン賞を勝ち、ジェベルはサブロン賞、ボイヤール賞、アルクール賞、エドヴィル賞を勝った。ルパシャとジェベルの対戦が実現したのは夏のサンクルー大賞だった。この競走はそれまで「共和国大統領賞」の名で行われていたが、ドイツ侵攻で共和国が崩壊したためにレース名が変更になっていた。ルパシャは残り50メートルまで先頭だったが、ジェベルが最後にこれを捕まえ、レコードタイムで勝った。ルパシャにとっては初めての敗戦だった。ルパシャはこのあとプランスドランジュ賞を圧勝し、凱旋門賞で両者の再戦が実現した。3歳勢ではフランスダービー2着のトルナード(Tornado)とロワイヤル・オーク賞に勝ったティフィナール(Tifinar)が出走してきたが、フランスダービーとパリ大賞を勝ったマジステール(Magister)やダービー卿所有の無敗のアーコット(Arcot)は凱旋門賞には出て来なかった。本命になったのはルパシャで、2番人気はジェベルだった。いつも通りルパシャが早めに先頭にたって直線に入ったが、ルパシャはそこで故障を発生して後退した。これを見たジェベルは楽に先頭に立ち、そのままゴールした。2着にはトルナードが入った。 ルパシャは引退すると、ドサージュ・システムの考案者であるヴュイエ大佐の未亡人の牧場で繋養された。一方のジェベルもこの凱旋門賞を最後に引退して種牡馬となった。ジェベルの子はフランスとイギリスで活躍し、過去の凱旋門賞の優勝馬の中でもっとも成功した種牡馬となった。
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