占領下の規制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:50 UTC 版)
第二次世界大戦における日本の敗戦により、忠臣蔵の位置づけも戦中とは大きく変化する。下村定陸軍大臣は「陸軍軍人軍属に告ぐ」という放送で、大石内蔵助の赤穂城明け渡しの立派さを例に挙げて天皇の命令に従っておとなしく武器を捨てるように言い、石原莞爾陸軍中将も毎日新聞でやはり大石を例にして同様の事を述べている。 戦後米軍が日本を占領すると、GHQの下部組織CIEが日本の映画会社各社に推奨すべき映画と作成を禁止すべき映画の指針を通達し、禁止事項の中には「仇討ちに関するもの」と「封建的忠誠心または生命の軽視を好ましいこと、また名誉なこととしたもの」という項目があり、これにより忠臣蔵映画の上演は不可能になった。 フォービアン・バワーズによれば、1943年11月には雑誌『LIFE』に忠臣蔵から日本人の「血に飢えた」メンタリティを分析する論考が載っており、GHQの上層部はこれを読んで前述した禁止事項を入れたのかもしれないとしている。もしそうだとすれば、GHQは忠臣蔵を狙い撃ちして禁止した事になる。 実際占領期間中には、中山安兵衛(堀部安兵衛)を人の命を奪う事のむなしさに悩む男として描いた『「高田馬場」より 中山安兵衛』(1951年3月公開)を唯一の例外として、本伝はもちろん外伝ものすら忠臣蔵映画の上演は許可されていない(なお『忠臣蔵余聞 四十八人目の男』の再演も、正確な上映期間が分からないものの、占領下の1951年4月に行われた可能性がある)。 ただし1949年の映画『青い山脈』は忠臣蔵を換骨奪胎して作り上げたものだとこの映画のプロデューサーの藤本真澄が証言しており、その意味ではこれを占領期間中に作られた数少ない忠臣蔵映画とみなす事もできる。
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