博覧会の成果
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「北九州博覧祭2001」の記事における「博覧会の成果」の解説
高速道路からのアクセスの良さ、駅前、さらにスペースワールドの隣という好立地にもかかわらず、猛暑などで天候に恵まれなかったことや、スペースワールドへの配慮による娯楽性の乏しさにより入場者数は低迷。215万8,465人(別会場で行われたGLAYの野外ライブ「GLAY EXPO 2001 “GLOBAL COMMUNICATION”」の観客動員数の約8万人は含まず)と、同年山口県で開催された山口きらら博と比べると、開催期間は長いにもかかわらず入場者数は少ないという結果となった。また、これは、合計12回開催された特定地方博覧会制度によるJAPAN EXPOの中では、8番目の入場者数である。ただし、9月・10月には、市役所職員に対し無料券が発行されたこともあって観客数が伸び、当初目標とした観客動員数200万人は達成している。 北九州交流館が入ったセンタープラザは、現在、北九州市立いのちのたび博物館となっている。また、会場となった東田地区で博覧祭の為に整備された跡地は終了後、スポーツデポ・ベスト電器八幡本店・イオンモール八幡東・北九州イノベーションギャラリー等が建てられているほか、マンション等の住宅分譲地となっている。
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博覧会の成果
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2001年(平成13年)はほぼ同じ時期に福岡県北九州市で北九州博覧祭2001が、福島県須賀川市でうつくしま未来博が開かれており、同時期に3つの地方博覧会が重複する状況となっていた。特に、北九州博覧祭とは開催期間や集客範囲で競合して、さらには立地面で極めて不利(北九州博覧祭はスペースワールド駅前のスペースワールド隣接地で開催された)という見方が強く、開催前はきらら博は満足な集客が得られないのではという意見が専らであった。 しかしながら、ボランティアスタッフをはじめとする県民総参加による協働の成果もあって、結果的に総入場者数は79日間で251万4178人という成果を収めた。これは当時の山口県の人口(約150万人)を大きく上回り、北九州博覧祭が7月4日から11月4日までの124日間で215万8465人が入場した数字と比較しても、遜色ないものであったといえる。 きらら博ではゴミを出さないことを徹底し分別などを細かくした結果、期間中に排出したゴミは約1tだった。また、前述の通り県の入場者数の目標の200万人を大幅に超えたこともあり、博覧会そのものは成功裏に終わったといえる。ただ、博覧会前に整備された山口宇部道路と山陽自動車道宇部下関線の利用者数の低迷などの問題(もっとも、両者とも山口きらら博のためだけに整備されたわけではない)や、山口きらら博跡地を含めた阿知須干拓地の利用計画策定が十分に進んでいないこともあり、博覧会の成果としては議論の余地が残るという見方もある。 会場の跡地は、きらら元気ドームをはじめとする一部施設を活用・再整備し、山口県立きららスポーツ交流公園として開園した。その後同公園は都市公園に移行し、現在は山口きらら博記念公園となっている。会場に設置されていた大観覧車は、福島県郡山市の商業施設・ショッピングモールフェスタに移設され、2002年8月から「ビッグルーレット」の名称で営業していたが、2017年3月に老朽化のため営業を終了した。
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博覧会の成果
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博覧会の成否については意見が分かれていたが、閉幕してみれば参加者は310万人であり、まずまずの成果であったといえる。また体験博開催にあたり和歌山県南部地域内陸部の道路網の整備が急ピッチで行なわれた。これにより景観破壊が起こったという意見もあるが、非常に粗末で貧弱であった山間部の道路網が整備されたことによる効果は非常に大きいものであった。道路整備のおかげで世界遺産登録後の観光客増加にも対応できたと言える。国道整備の影響は後の市町村合併にも影響するほど(旧本宮町は道路整備により結びつきが強まった旧田辺市と合併した)、地域の生活環境にも大きな影響を与えた。 体験博は当時の癒しブームにも乗り、熊野古道・熊野三山などを全国に発信するなど知名度アップに貢献したと言える。その後の世界遺産登録(紀伊山地の霊場と参詣道)の大きな原動力にもなった。その意味においても意義あるものであった。 また、外部からの資本投資に頼らず、あくまで地域性、地域固有の資産を生かしたことは非常に大きい。いわゆる箱モノのパビリオン等を建設し、入場料金等の収益金でカバーする従来の博覧会とは全く異なるものであった。 実際、この手法は後の地方博にも生かされ、2001年に開催されたうつくしま未来博や山口きらら博などに大きな影響を与えたといわれる。関係者が2度地方博を開催し成功させた和歌山県に対して運営面などについて協力を求めるために視察に行っている。 南紀熊野体験博は、魅力ある南紀・熊野地域つまりは和歌山県の観光資源を全国に発信、道路などの社会基盤の整備、21世紀型博覧会の可能性の提示など一石三鳥の効果があったと言える。体験博をきっかけにして世界遺産登録が実現するなど見た目以上の成果があった。また、ここから生まれた古道ブームは、日本に古来から根付いていた神社仏閣や遺跡、庭園、歴史的な町並みなど伝統文化の見直し、回帰現象を生んだとされ、その影響力は日本全国に及ぶものでもあった。
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