半島内での独立運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 06:30 UTC 版)
1930年代の後半から、修養同友会事件(朝鮮語版)や満州事変や初期の日中戦争での連戦連勝をきっかけに、朝鮮半島では日本を事大主義の対象とする意識が次第に浸透するようになり、崔麟をはじめとする三・一独立宣言文の起草メンバーの多くが親日に転向し始めた。1939年10月末頃に、総督府警察に要注意人物としてマークされていた人数は、約7,600人に達したが、その内の約40%である3,076人が転向を表明している。非転向者は、約23%の1,765人しか残らず、残りの37%は不明とされた。また、独立運動家らが独立資金として称して一般良民から金品を強盗をする事件も多数発生しており、「徒に民怨を招」いていると報告されている。 このような状況の中でも1930年代後半から半島内での抗日活動家のうちの民族主義者の比率は増加の一途を辿り、1940年代に入ってもその傾向は続いた。1940年〜1941年にかけての思想犯検挙の状況によれば、共産主義者の逮捕者数が668名から158名に減少したのに対し、民族主義者の逮捕者数は72名から176名に増加している。 日米開戦以降の日本では、戦時体制が敷かれるようになり、外地である朝鮮半島においても、あらゆる分野で物資不足が叫ばれるようになった。戦争末期の国民徴用令の朝鮮における施行に伴い、内地で働く者もでた一方で、デマの流布やサボタージュ、徴用や徴兵、学兵、供出の拒否といった消極的な形での抗日活動も見られた[要出典][リンク切れ]。 第二次世界大戦中の国外における独立運動は、半島からは地理的に遠く離れていたうえに、ほとんど何も出来ない状況にあった。そのことから、サイパン島玉砕を機に日本の敗戦が濃厚となってからも、重慶の臨時政府では、臨時政府が連合国から独立後の正当な政府と認められない、直ちに半島に帰還することが出来ないのでは、という懸念が浮上するようなり、同胞達が住む半島の戦後の状況を不安視する声が上がり始めた。このような点で、1940年代の半島における唯一の独立運動団体だった建国同盟の役割は大きいものがあった。建国同盟は、1944年8月10日に、日本の敗戦を見越した呂運亨や趙東祜などを主軸に立ち上げられた。建国同盟の綱領は手短なもので、 #各人各派を大同団結し、挙国一致で日帝を駆逐し、韓民族の自由と独立を回復する。連合国と連合戦線を形成し、一切の独立を阻害する反動勢力を撲滅する。 民主主義的建設と、労農大衆解放に重点を置く。 といったものだった。 中央と地方で組職を立てながら、建国同盟は治安隊と軍事団体組職、国外独立運動団体との提携活動を展開した。趙東祜などで軍事委員会組織し、後方撹乱活動を展開させ、満州軍官学校将校達を少数糾合し、北京を拠点に華北の朝鮮義勇軍と連結し、重慶の臨時政府とも連絡を取ろうとした。 1944年10月には農民同盟が組職されたが、この組職は建国同盟の友軍だった。呂運亨は学生や教師、鉄道員、女性などの組織も、それぞれ小規模ながら立ち上げ、徴用や徴兵の拒否者達の組職に関与しながら、共産主義者達とも提携していた。 1945年8月15日に、朝鮮総督府の要請に従って遠藤柳作政務総監に会った呂運亨は、 #全朝鮮の政治犯・経済犯を即時釈放せよ。集団生活地である京城の食糧を3ヶ月分確保せよ。 治安維持と建設事業に何の干渉もするな。 朝鮮において指導力となる学生の訓練と青年の組織に干渉するな。 全朝鮮にある事業場の労働者を我々の建設事業に協力させ、何の苦しみも与えるな。 といった5ヶ条の要求を提示した。呂に日本人の生命及び財産保護の為の治安協力を要求したかった遠藤政務総監は、状況が状況だっただけに呂の要求を聞き入れざるを得なかった。翌日から、半島全土の獄門が開かれ、政治犯達が釈放された。 建国同盟は、1945年8月15日の光復直後に改編して、「朝鮮建国準備委員会」として発足した。同日の日本の降伏によって、朝鮮独立運動は相手を連合国軍に変えて継続された。
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