半島からチャンセラーズヴィルへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/23 04:45 UTC 版)
「アルフレッド・プレソントン」の記事における「半島からチャンセラーズヴィルへ」の解説
1861年に南北戦争が始まったとき、プレソントン大尉は第2竜騎兵隊と共にユタ準州のクリッテンデン砦からワシントンD.C.まで動いた。プレソントンは積極的に政治工作を行い、そのときは不名誉なことになっていた父(1855年に死去)の衰えた政界との結びつきも利用しようとしたが、その仲間の急速な昇進とは裏腹にやっと1862年初めに少佐に昇進しただけだった。半島方面作戦では可も無く不可も無く務め、遂に7月16日に准将に昇進し、ポトマック軍で騎兵旅団を指揮することになった。 9月2日のアンティータムの戦いで、プレソントンは騎兵師団の指揮を執り、砲弾で負傷した。大望を抱くプレソントンはその行動で志願兵の少将に昇進できなかったので不満であり、彼に割り当てられた師団および特に騎馬砲兵隊が戦闘の決定的な役割を演じたと虚偽の主張をした(プレソントンは正規軍の中佐への名誉昇進を果たしたが、恐らくはその戦闘報告書で誇張された主張に基づいており、他の将軍達の報告では実証されていなかった)。 チャンセラーズヴィルの戦いでは、自己宣伝の行動を続けた。1863年5月2日に、一時的にストーンウォール・ジャクソン軍団による攻撃を止め、北軍第11軍団の全滅を防ぐことができたと主張した。プレソントンは十分な説得力があったので、ポトマック軍指揮官ジョセフ・フッカー少将はエイブラハム・リンカーン大統領に、プレソントンがチャンセラーズヴィルで「北軍を救った。」と告げた。しかし戦闘報告書では、プレソントンの役割は主張しているよりも重要ではなく、ヘイゼル・グラブで小規模の南軍歩兵分遣隊と戦っただけであることを示していた。それでもこの主張で6月22日に志願兵の少将への昇進を果たし、無能な騎兵軍団長ジョージ・ストーンマン少将がチャンセラーズヴィルの後で解任された時、フッカーはプレソントンを一時的なその代役に指名した。プレソントンはこの高い任務を潔く受けることはできなかった。フッカー将軍に宛てて「私は、...不満足な状態について無言のままでおられず、この軍団は...その現在の状態の責任は...私のものではない。」と書き送った。
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