半島侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 05:27 UTC 版)
「東部戦線 (南北戦争)」の記事における「半島侵攻」の解説
北軍はヨークタウンまで進み、包囲戦の準備のために手間取った後で、マクレランが小競り合いであったヨークタウンの包囲戦で南軍を破った。この期間にハンプトン・ローズとノーフォークを占領した。北軍が撤退する南軍を追って半島を北西にリッチモンドに向かって侵攻する途中で、マグルーダー砦の近くで1日だけのウィリアムズバーグの戦いが起こったが決着は付かなかった。ウィリアムズバーグは植民地時代の古都であり、そこからは東に1マイル (1.6 km)しか離れていなかった。 5月の終りまでに、北軍はリッチモンドから数マイルの所まで前進したが、歩みは鈍かった。マクレランの作戦は大軍で包囲戦を行うことであり、そのための大量の装備や臼砲も運んできていた。天候が悪く道も整備されていなかったので、進行を遅らされていた。マクレランは生来慎重な性格であった。数の上で自軍の2倍もあると思われる敵を攻撃することに神経質になっていた。事実はマクレランの想像力と知性の働きで失敗した。勢力比は予想とはほとんど逆で北軍の方が優勢だった。南軍のジョンストン将軍は緩りと半島をリッチモンドに向かって後退する間に、偽装工作をしていた。特に戦前は素人俳優であったジョン・マグルーダー指揮下の師団は、少数の部隊が何回も同じ場所をこれ見よがしに行軍することで軍勢を多く見せ、マクレランを欺いていた。 北軍がリッチモンド外郭防御線の方に動いたとき、チカホミニー川で分断されて、前線に沿って引くも進むも儘ならないようになった。5月31日から6月1日にかけてセブンパインズの戦い(フェア・オークスの戦いとも呼ばれる)が起こり、南軍が川の南にいた北軍の小部隊を攻撃した。この戦闘は戦術的には決着が付いていないが、戦略的には2つの効果があった。1つは、ジョンストンが戦闘中に負傷し、より攻撃的な性格のリー将軍に交代したことであった。リーは北バージニア軍を率いその後の戦闘で多くの戦勝をあげた。2つ目は、マクレランが攻撃的な姿勢を捨てて包囲戦を布くことを選んだことであり、リンカーンに要請した援軍が到着するのを待つことにした。マクレランは戦略的な機運を取り戻すことがなかった。 リーはリッチモンドの防御を固めて一月余もマクレランの進行を止めた。ジェームズ川の南岸では南のピーターズバーグまで防御線を布いた。新しい防御線の長さは約30マイル (50 km)にも及んだ。リーは防御線を構築し次の攻撃を準備する時間を稼ぐために、小部隊の数をより大きく見せる作戦を繰り返した。マクレランは、6月13日から15日に南軍のJ・E・B・スチュアート准将が北軍の周りを騎兵で大胆に(他の場合なら意味がない)乗り回す動きで自信を失いかけていた。
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