半島を所有し半島を越えて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 20:02 UTC 版)
「朝鮮民族主義歴史学」の記事における「半島を所有し半島を越えて」の解説
申采浩は、彼の独創的な研究『読史新論』で、朝鮮史の主題を朝鮮半島だけから「満州」の外縁および「人種的に定義された国民」(民族)へと再定義した。彼は、朝鮮史を民族史と定義することで、高句麗、新羅、百済は、互いに頻繁に戦っていたが、「同じ民族で、結果的に、同じ歴史」だと主張することができた。しかし、このような極端な北部領土を持っていた王朝に正当性を与えていなかった李氏朝鮮の儒教の歴史が、鴨緑江と豆満江を境界とする朝鮮民族の概念を強化した。申采浩は、特にこの閉じ込めに憤慨し、高句麗の滅亡と、「朝鮮」が半島の外の領土の支配を失ったことが、民族の衰退の始まりだと考えた。彼は「朝鮮民族が満州を得れば朝鮮民族は強く繁栄する。他の[東や北の]民族が満州を得ると…朝鮮[Han'guk]は…[東や北の]民族の勢力圏に入る。…これは4000年間変わっていない鉄のルールだ」と書いた。多くの現代の朝鮮人はこの感情に同意する。申は、嘆きつつ、満鮮史派の日本帝国の歴史家と共通の主張を発見した。彼らは、朝鮮半島とアジア大陸を切り離せないものとして描こうとした。しかしその目標は朝鮮独立の思想を土台を崩すことだった。申だけでなく、民族主義歴史家仲間の朴殷植も、満州を強力な「大朝鮮」を構築するための基盤だと考えた。 しかし同時に、民族主義歴史学は、朝鮮半島に存在した全ての政体が「朝鮮」だった事、および、半島の全ての住民が「5000年」間、変わる事なく均質に「朝鮮人」だった事を前提としている。E. テイラー・アトキンス(E. Taylor Atkins)は、これらの仮定を「日本の植民地学者の前提と同じくらい疑わしい」し、現代の中国や日本との領土紛争の原因となっているとして批判した。済州島、鬱陵島、竹島の歴史研究は、李氏朝鮮後期から朝鮮人としての概念に見合って、海上防衛の適時の要求に役立った。
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