半島化以前とは? わかりやすく解説

半島化以前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 02:41 UTC 版)

児島」の記事における「半島化以前」の解説

児島古代より実在し、『記紀』にて記されており、それが現在のところ初見となっている(同時に吉備国初見でもある)。 『古事記』上巻のイザナギ・イザナミによる国土生成の項に「かれこの八島ぞ先づ生みませる国なるに因りて大八島国と謂ふ。さて後還りましし時に吉備児島を生みたまふ。またの名は健日方別といふ」とあり、児島大八洲生成の後に生み出されている。 一方『日本書紀』巻一神代上大八洲生成の項では、吉備の子洲は大八洲一つ入っている。 児島遠く神代時代から、わが国土の重要な部分であり、広く知られ土地であったことがわかる。日本書紀には、欽明16年児島屯倉児島屯倉)が設置されたことが記載されている。 その後国郡里制敷かれるあたりから、児島その周辺島々児島郡置かれた。『和名類聚抄』には4郷が記載されているが、平城宮出土木簡には「吉備国子嶋郡小豆郷」とあり、古い時代には郷数はもっと多かったとされる和名抄の4郷の中には児島郷があったが、その場所は諸説あり、現在の倉敷市児島地域大部分中心部郷内など)ともいわれるまた、児島郡域は時代により広狭しており、小豆島直島諸島など現在の香川県一部島嶼児島郡一部であった時期もある。現在、倉敷市水島地域西部連島江戸時代になるまでは児島郡内にとして扱われ地名和名抄載る都羅郷に由来するといわれるその後備中国浅口郡移管となった児島および周辺の島々本土により囲まれ海域吉備穴海と呼ばれ重要な海洋交通路であった藤戸の戦い治承・寿永の乱)の舞台となった藤戸海峡は、児島中北部と、その北側吉備穴海に浮かぶ島々の間の海峡であり、児島側の沿岸には「藤戸の泊」と呼ばれる重要な港があった。また、四国からの備前玄関口でもあり、戦国末期には、安芸備後毛利氏備前播磨浦上氏讃岐安芸三好氏争いの場となった

※この「半島化以前」の解説は、「児島」の解説の一部です。
「半島化以前」を含む「児島」の記事については、「児島」の概要を参照ください。

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