前期・覇者の時代とは? わかりやすく解説

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前期・覇者の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 04:30 UTC 版)

春秋時代」の記事における「前期・覇者の時代」の解説

自らの悪政により、不満を募らせ諸侯背かれた周の幽王が、紀元前771年殺されると、翌年幽王息子は鄭の武公らの力を借りて洛邑に周を再興する。これが平王であり、以降の周は東周呼ばれこれから春秋時代始まりである。 周の東遷大きく貢献した鄭の武公この後権勢振るったが、大きすぎる功績により周王から、かえって疎んじられた。武公の子荘公の代で、周の桓王による討伐を受けるも、撃退成功した(繻戦い)。この時に追撃するべきとの家臣言葉荘公は「天子に対してそのようなことは良くない」と答えた。この逸話は、周王大幅な権威失墜を表す一方、それでも諸侯周王への敬意未だ抱いていたことも表している。ただ、その鄭の国威荘公以降はあまり振るわなくなる。鄭は王室卿士王室直属)の家柄であったが、その統治所領狭く国力自体は中の下という程度であった為である。一方、周の東遷後も周王に対して敬意払ってきた諸侯は、周王が一諸侯である鄭公に敗北した現実目の当たりにして独自の政治的軍事的動き始めようになった現在の湖北省随州市付近にあった曽(中国語版)の春秋時代の侯の墓に納められていた青銅器銘文には、「周室既卑(しゅうしつすでにひくく)」と書かれている。さらに周王室内では幾度も王位継承争い発生し、周の力は弱体化していった。 鄭に代わって覇権を握るのが東方大国・斉である。周建国の大功臣・太公望始祖とする斉は東の未開地帯を大きく広げ国力充実させていた。14代目襄公死後後継争い国内混乱するが、内乱収めた桓公とその宰相管仲の活躍により、大きく飛躍する。当時南方周辺小国呑み込んでいた新興国大きく勢力伸ばし、さらに中原小国への侵攻気配見せていた。本来頼るべき周は小さくなった王室の中でなお権力争い続けている有様であり、威圧怯えた小国仕方なく服従していた。しかし斉に桓公登場し対抗したことでこれら小国は斉に助け求めようになった対決した桓公は、召陵においての周に対す無礼咎め侵攻抑えた。これにより諸侯間の盟主成った桓公は、紀元前651年丘(現在の河南省商丘市民権県)において会盟開き周王に代わって諸侯の間の取り決め行った。この業績により桓公覇者呼ばれ春秋五覇第一に数えられる。もっとも、斉の覇権中原中心とした黄河流域留まり敗れたとはいえ長江流域勢力圏形成するのを止める力はなく、以後中原最大勢力(斉・宋・晋)と南方争いは続くことになる。 しかし管仲の死後、人が変わったように堕落した桓公により国政乱れ、さらに桓公死後の後継争いで斉は一気覇権の座から転落した。これに代わって覇者になろうとしたのが宋の襄公である。殷の遺民たちの国で、国力中程度という宋だったが、襄公桓公の後を継いで天下治めんという高い志を抱いていた。まず斉の後継争い介入元より太子とされて宋に預けられていた昭を位に就けて孝公とした。さらに諸侯盟主となるべく盂(現在の河南省商丘市睢県)にて会盟開いた。しかし、この会盟で宋に主導権握られることを嫌っていた、参加国重臣監禁されてしまった。襄公はいったん帰国して決戦に及ぶ(泓水の戦い)が、敵に情けをかけた結果大敗宋襄の仁)し、覇権獲得は成らなかった。 桓公に続く第二覇者となるのが北の大国・晋の文公である。晋は武公献公2代亘って周辺諸国併合して大きく伸張したが、献公愛妾驪姫起こした騒動により、文公たち公子国外へ逃亡した文公異国にあること10数年に亘り、苦労果て隣国・秦の助力借りて晋公の座に就いた君主就いた文公は後に周王室の内紛収めとの城濮の戦い大勝し、践土(現在の河南省新郷市原陽県)に周の襄王招き会盟開いて諸侯盟主となった文公桓公並んで春秋五覇の代表であり、斉桓晋文と称される文公前後して活躍したのが、西の大国・秦の穆公である。穆公は西の戎と戦って勝利し百里奚などの他国出身者積極的に起用し小国併合して領土広げた。また驪姫の乱混乱した晋に恵公擁立し、後に恵公背信繰り返すとこれを韓の地で大破しその死後今度恵公の兄を即位させ晋の文公とした。秦の穆公と晋の文公の関係は良好であったが、文公死後に再び両国の関係は悪化し穆公またもや晋を大い破っている。だが穆公死去後家臣のほとんどが殉死したため秦は大きく後退した次に覇権を握るのが、南の大国荘王である。もともと周から封建された国ではなく実力により湖北湖南押さえて立国した経緯の為、王として認知されていなかった。のちに子爵の位を周より授かったが、国力に対して位が低すぎるとして自ら王を名乗るようになったのである荘王今まで朝廷はびこっていた悪臣たちを一挙に排除し有能な人材登用した。国内治めた荘王豊富な兵力をもって北上して周辺小国威服させ、洛陽近くで大閲兵式行って周王室に圧力をかけた。さらに鄭の都を包囲し、これを救援に来た晋軍を邲(ひつ)で大破した。この勝利により中原小国服従した

※この「前期・覇者の時代」の解説は、「春秋時代」の解説の一部です。
「前期・覇者の時代」を含む「春秋時代」の記事については、「春秋時代」の概要を参照ください。

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