管仲の活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 09:43 UTC 版)
斉公の位に就いた小白こと桓公は、魯に公子糾は殺すように、管仲は引き渡すように命じた。初め桓公は管仲に命を狙われたことを怒り、管仲も殺そうとしていた。しかし腹心で、管仲の親友でもある鮑叔に「公が斉の君主であるだけでよいならば、この私でも宰相が務まりましょう。しかし、公が天下の覇者になりたいと思われるならば宰相は管仲でなければなりません」と言われ、管仲を魯から引き取り宰相とした。 宰相になった管仲は、諸改革を推進・断行し、国力・軍事力・文化面の向上に成功した。すでに周王室は衰微しており、諸侯間の対立を抑えることもままならなかった。管仲の改革を受け入れた斉の桓公は、周辺諸国にその名声が伝わり、周辺諸侯は周王朝に代わって諸侯間の問題を桓公に審議してもらうようになった。長江流域の現在の湖北省を中心とした地帯を地盤にし、南方から勢力を伸ばし、周王室や諸侯を脅かし始めていた楚を、桓公は諸侯を率いてこれを破った。紀元前651年、桓公は諸侯と葵丘の会盟を執り行い、ここに覇者となった。 この頃になると、桓公は慢心し封禅の儀式を行おうとした。封禅は聖天子だけが行えるとされる儀式で、これをすることは周を無視して自分が天子であると宣言するようなものである。管仲は必死にこれを諌めて止めさせた。
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