管仲の死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 09:43 UTC 版)
紀元前645年、国政の要であった管仲が亡くなると、国政を顧みなくなり放蕩に明け暮れるようになった。管仲が亡くなる時に引き立ててはいけないと言った易牙・豎刁・公子開方の、まとめて「三貴」と呼ばれた佞臣らを起用し、国政は乱れた。 桓公が病床に就くと、桓公は三貴によって病室に閉じ込められ、そのまま紀元前643年10月8日に息を引き取った(食料すら与えられず餓死したといわれる)。その後の公子達の後継者争いの中でその遺体は放置され、翌紀元前642年8月に太子昭が孝公として位につくまで67日の間、納棺・埋葬される事もなく、そのため遂には扉からウジが這い出してきたという。斉はこの後もたびたび後継者争いが起こり、覇権は晋、楚へ移った。
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