再評価と死去
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「アルトゥル・ショーペンハウアー」の記事における「再評価と死去」の解説
1849(61歳)8月、ボンにて妹アデーレ死去。司法官試補アダム・フォン・ドスとの交際が始まり、ドスはショーペンハウアー哲学の信奉者となる。1850年(62歳)、六年間にわたって続けた『余禄と補遺』が完成し、フラウエンシュテットの尽力により翌1850年(62歳)11月にベルリン、のA・W・ハイン書店から全二巻として、このときも原稿料なしで刊行される。1852年(64歳)、哲学博士エルンスト・オットー・リンドナーとの交際が始まる。1853年(65歳)、『ウェストミンスター・レヴュー』四月号にジョン・オクセンフォードが「ドイツ哲学における偶像破壊」という論文を発表、終始ショーペンハウアーを論じたもので、ショーペンハウアーをはじめて外国人に注目させる役割を果たす。1854年(9月)、『自然における意志について』を改訂増補した第二版がヘルマン書店から、12月には『視覚と色彩について』の第二版がハルトクノッホ書店から刊行される。フラウエンシュテットは『ショーペンハウアー哲学に関する書簡集』を発表する。リヒャルト・ワーグナーはその詩作『ニーベルングの指輪』に、自筆の「思慕と感謝の心より」という献辞を添えて送ってき、これに対しショーペンハウアーは、ワーグナーは音楽家としてよりも詩人としての才能をもっている、と言っている。さらにこの年、ショーペンハウアーの最初の伝記作家となり、また遺言執行人ともなるヴィルヘルム・グヴィナー法学博士と親しく交際する。 1855年(67歳)、フランスの画家ジュール・ルンテシュッツが油彩の肖像を描く。1883年に「ショーペンハウアーについてのわが想い出」を書くことになるワーグナーの弟子で若い作曲家のローベルト・フォン・ホルシュタインとの交際が始まる。1856年(68歳)、ベルリンのザクセ商会からルンテシュッツの描いた肖像画が華麗な石版画となって売り出される。ライプツィヒ大学哲学部が「ショーペンハウアー哲学の真髄の解説と批判」というテーマで懸賞論文を募集する。カール・G・ベールという学生がこれへの応募の為、四月にショーペンハウアーを訪れ、翌1857年(69歳)、二等賞を得る。この論文は『ショーペンハウアー哲学の概要ならびに批判的解説』として出版され、ショーペンハウアーはベールに「卓越した書」と記した令状を出す。同年ボン大学でクノートが、ブレスラウ大学ではG・W・ケオルバーがショーペンハウアー哲学に関する、大学でのはじめての講義を行っている。 1858年(70歳)、2月22日に七十回目の誕生祝いが催され、ベルリン王立学士院がその会員にショーペンハウアーを推薦したがショーペンハウアーはこれを拒否した。8月、主著第二版が売り切れ、ブロックハウス書店よりの第三版を刊行したいとの申し入れを受けて9月に第三版刊行の準備にかかる。1859年(71歳)、画家アンギルベルト・ゲーベルが油彩の肖像を描き、それからエッチングを作る。7月1日ジェーネ・アウスジヒト十七番地の十六年にわたって間借していた住居を出、同十六番地の隣家に移る。女流彫刻家エリザベート・ネイが大理石の胸像を造る。11月、主著第三版が、続編とともに刊行される。 1860年(72歳)、ゲーテの義妹オッティーリエが主著第三版へ祝辞を寄せる。『倫理学における二つの根本問題』の第二版への準備を始める。9月9日肺炎にかかり、9月18日遺言執行人ヴィルヘルム・グヴィナーと最後の会見をすると9月21日金曜の朝に死去。9月26日フランクフルト市の墓地に埋葬され、その遺志に従って墓石には彼の姓名だけが刻まれた。
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再評価と死去
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「ドリス・ウィッシュマン」の記事における「再評価と死去」の解説
1990年代に彼女の主にカルト的な評価が高まったことにより、人生の後半において、ウィッシュマンは、さらに3本の映画を完成させる事が出来た。セックス・コメディ『Dildo Heaven 』(2002年)、近代セクスプロイテーション映画、『Satan Was a Lady 』(同タイトルの1975年のハードコア映画とは異なる)。遺作となった『Each Time I Kill 』というスリラー映画は、マイアミ地区で撮られた。ウィッシュマンは2002年8月にマイアミ(フロリダ州)で悪性リンパ腫により死去した。90歳であった。そのわずか6週間前に映画の主要撮影は完了していた。映画はプロジェクトの製作総指揮者によって後に完成し、様々な映画祭で上映された。 2000年に、ウィッシュマンはエクスプロイテーション映画界で偶像視されるロジャー・コーマン、デイヴィッド・F・フリードマンと並んで、アメリカのエクスプロイテーション映画の盛衰に関するドキュメンタリー映画『SCHLOCK! The Secret History of American Movies』に出演した。この映画のための彼女のインタビューの抜粋をウィッシュマンの1960年の最初の映画『Hideout in the Sun 』のDVD(2007年)で見る事ができる。より近年、ウィッシュマンはナショナルパブリックラジオの番組「Fresh Air」でもインタビューを受け、NBCの『レイト・ナイト・ウィズ・コナン・オブライエン』に2度ゲスト出演し、またHarvard Film Archiveの回顧展とNew York Underground Film Festivalの主役でもあった。
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