党員時代
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60年安保闘争のときまでは、ノンポリ学生でバルザックやトルストイの文学を愛好し、哲学でもイマヌエル・カントやフリードリヒ・ヘーゲルの方が好きであった。マルクス主義とは無縁であったという。安保闘争を機にマルクスの思想にふれた。高校時代から歴史学を愛好していたが、マルクス主義には歴史に発展法則があるという考え(史的唯物論)があり、そこに魅かれたという。 京都大学法学部在学中に日本共産党に入党。大学ではドイツ刑法を学んでいた。刑法の道に進むか、マルクス主義をとるかでおおいに悩んだ時期があったという。大学には7年在籍し、そろそろ卒業しようと思っていたとき、在籍年度を超えたという知らせが入ったので、結果的には中退して日本共産党の専従となった。 60年安保期の大学では、反代々木の言論が横行したが、それには耳をかさず、筋金入りのプロレタリアートになろうと心がけ、臨時工などに就きながらオルグ活動をおこなっていた。共産党中央へ取り立てられたのは、地方組織で中央批判の論文をよく書いていたのが目にとまり、批判ばかりではなく中央の活動に貢献するよう言われ、空手経験を活かし、共産党要人の護衛もするよう説かれたからであるという。 1978年(昭和53年)、党国会議員公設秘書となる。 国会議員秘書としてロッキード事件(1976年発覚。一審は1983年)やリクルート事件(1988年発覚。一審は1994年)の真相究明に努めた。 1987年11月に起こった大韓航空機爆破事件に関する報道で、北朝鮮工作員だった金賢姫の供述内容に衝撃を受け、議員秘書として関連する事象の調査を進める過程で、1978年7月から8月にかけて起こった一連のアベック失踪事件のことを知り、以後、福井県・鹿児島県・新潟県で現地調査を行うなど北朝鮮による日本人拉致問題の調査に乗り出した 1988年3月26日、参議院議員橋本敦が参議院予算委員会において日本人拉致問題に関して質問に立ち、国家公安委員長梶山静六から「北朝鮮による関与が濃厚」とする答弁を引き出している(「梶山答弁」)。兵本は橋本の秘書として、この質問の原稿を作成した。 1980年に「アベック失踪事件」のスクープを報じた産経新聞の阿部雅美記者とは「梶山答弁」以降に連絡を取り合い、拉致問題について情報を交換した。産経新聞と共産党とは犬猿の仲であったが、電話をかけてきたのは兵本の方からであった。阿部によれば、兵本の関心は拉致被害者をどうやって日本に取り戻すかにあり、当時そのようなことを考えていたのは兵本ただひとりだけだったろうと振り返っている。 1997年3月、北朝鮮による拉致被害者家族連絡会の結成に参画。「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(救う会)の幹事に就任。 1998年、「定年退職後の再就職先斡旋を公安警察の関係者に依頼した」として、日本共産党からスパイ行為の廉で除名処分が下る。兵本自身はこの処分理由に関して「自分から就職斡旋を依頼した事実はなく、政府当局者から仕事を紹介してきたこと。会ったのは警察官だけではなく、内閣官房や外務省の官僚もいたこと。以上の経緯を共産党は無視し、さも就職斡旋を自ら依頼したような表現、他の役人関係者の存在を無視して公安警察との関係をことさら強調した表現をしている」と述べ、『文藝春秋』誌上で、北朝鮮と友好関係を回復したことで拉致調査妨害をしているとして共産党中央議長の不破哲三への査問を要求した。日本共産党はこれに対して論評文を用意し、反論文掲載を『文藝春秋』に対して要求したが文春側はこれを拒否したという。
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