他流派の伝承上における宗矩の逸話とは? わかりやすく解説

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他流派の伝承上における宗矩の逸話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 01:31 UTC 版)

柳生宗矩」の記事における「他流派の伝承上における宗矩の逸話」の解説

宗矩の逸話のうち、真偽不明なものの中には他流派伝承出典となっているものも存在する。これらの逸話中には史実相反するものが多く注意が必要である。 二天一流宮本武蔵宮本武蔵逸話中には武蔵将軍家指南役として招かれそうになったところを宗矩が妨害した、というものがある。この逸話武蔵死後100年上後書かれ武蔵伝記『ニ天記』が初出である。 また、武蔵を宗矩の師匠とし、無刀取り試そうとした宗矩を「師にむかひて、表裏別心ありや」と叱り付け、謝らせたという話がある。なお、同時代の史料中に武蔵が宗矩の面識得ていたことを示す記述確認できない小野派一刀流小野忠明(小野次郎右衛門),小野忠常一刀流逸話中には秀忠指南役として宗矩と相役であった一刀流二世小野忠明が、宗矩に勝った事で、指南役としての地位手に入れたという逸話がある。一方史実において忠明は宗矩より先(文禄2年1593年))に仕官している。なお、この逸話の出典は一刀流内部伝記一刀流祖伝記』である。 また、同じく『三祖伝記』には、宗矩から忠明の剣を見たい頼まれ柳生家出向いたところ、宗矩本人仕合せず、息子十兵衛高弟達が出てきたので、これをまとめて相手にしたという逸話がある。なお、この後十兵衛木刀を置き、「忠明殿の剣は水月如し。到底拙者では敵い申さぬ」と平伏し村田与三と共に忠明入門したという顛末になっているが、十兵衛本人著作関連する書状に、忠明との関係を伺わせる記述はない。 同じく一刀流逸話中には忠明が宗矩に対し、「剣の修行のためには人を斬らせるのが一番である。罪人貰い受けご子息に斬らせてはいかがであろうか」と述べたところ、宗矩は「いかにもいかにも」と答えたものの、実際にそのようなことをしなかったというものがある(「日本剣道史」) この他忠明、またはその後継いだ小野忠常が(宗矩と違い将軍相手にも手加減をしなかったことで不興買ったために加増されず、宗矩と差がついたと記されている[要出典]。ただし、史実においては、相役となって以降忠明、及び忠常には特に旗本としての功績もなく、また忠明については同僚との諍いが元で閉門受けたことなどに鑑みると、上がらないことに不思議はなく、多分に自己正当化側面が強いと言える伊藤派一刀流根来重明) 『刀術流系』では、伊藤派一刀流根来重明徳川家宣召し抱えられところを、その前の仕合で重明に負けた柳生但馬守」がこれを讒言したので沙汰止みとなった、という逸話がある。なお、家宣生誕前に既に宗矩は亡くなっており、また家宣統治期間中に但馬守」を名乗った柳生家当主存在しない富田流富田重政富田流宗家富田重政と宗矩の立ち合い家光望んだ際、重政が「これは但馬守承知の上か」と不審思い、「本当によろしいか」と確認した後、直前沙汰止みとなったという[要出典]。 タイ捨流丸目長恵(丸目蔵人)) タイ捨流流祖丸目長恵が、新陰流正統をかけて宗矩に直談判し東国では柳生が、西国では丸目天下一名乗ることを認めさせたという逸話がある。ただし、その西国九州)の大藩である熊本藩細川家佐賀藩鍋島家において当主自ら柳生新陰流入門し大い隆盛したこと、およびその両藩(特に丸目の住地である人吉藩隣接する熊本藩)で上記逸話証する史料存在しない一方で上泉信綱より丸目宛に「西国御指南貴殿任せおき候」と記され書状がある。 示現流東郷重位示現流伝承には、流祖である東郷重位が、元和のころ、宗矩の高弟将軍指南をしていたという旗本福町七郎右衛門寺田小助破り試合後、両人から入門誓紙受けたとするものがある[要出典]。ただし、この出来事、及び、この両旗本の名は『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』では確認できない無住心剣流針ヶ谷夕雲無住心剣流逸話には、宗矩が無住心剣流流祖針ヶ谷夕雲に対して其の方只今兵法理に立向て勝ちを得べき覚えなし」と賛嘆し、試合避けたというものがある。 二階堂兵法松山主水二階堂平法の松山主水細川忠利に技を教授したところ、忠利が宗矩に対して、ときに勝ちを取れるようになり、急に腕が上がったのを宗矩が不思議がったという話がある[要出典]。 尾張柳生柳生利厳(柳生兵庫助)) 尾張柳生家主張では、柳生宗家(本家)を継いでいるのは嫡流自家であり、傍流江戸柳生家分家であるとしている。しかし、戦国時代においては嫡男は必ずしも長男の事を指すとは限らず当主決定によって変えられることが多々あり、関が原の後、所領取り戻した宗厳所領全てを宗矩一人に継がせていることから見て血筋だけを以って宗家主張するのは無理があると言える。また『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』、及び『本朝武芸小伝』撃剣叢談』などの江戸時代書かれ記述において、石舟斎の嗣子嫡男)とされているのは一貫して宗矩であり、尾張柳生家柳生宗家認めている記述は無い(利厳の父、新次郎厳勝は廃嫡されている)。 同じく尾張柳生家では、石舟斎が自らの正統認め自身技法あますことなく伝えたのは、新陰流正統の証である「一国一人印可」と「新影流目録」を継承した利厳のみであり(柳生厳長『正傳新陰流』)、宗矩や他の上泉の門弟が伝え系統傍流であるとしている。これに対し今村嘉雄は、「一国一人」とは日本一人という意味では無く甚だ稀なという修辞の意味であり、「新影流目録」に類する目録疋田景兼丸目長恵といった石舟以外の信綱の門弟にも与えられていることから、これらに新陰流正統の証の意味合いがあったとは考えづらいと主張している。また石舟斎の道統についても、尾張柳生家伝えられ目録等は全て江戸柳生家にも伝わっており、宗矩と利厳等に皆伝されていると考えるのが妥当であるとしている。なお『本朝武芸小伝』、『撃剣叢談』などにおいて、尾張柳生家新陰流新陰流正統認めている記述無くどちらも宗厳新陰流後継は宗矩としている。

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