他流派の伝承上における宗矩の逸話
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「柳生宗矩」の記事における「他流派の伝承上における宗矩の逸話」の解説
宗矩の逸話のうち、真偽が不明なものの中には、他流派の伝承が出典となっているものも存在する。これらの逸話の中には、史実と相反するものが多く、注意が必要である。 二天一流(宮本武蔵) 宮本武蔵の逸話の中には、武蔵が将軍家指南役として招かれそうになったところを宗矩が妨害した、というものがある。この逸話は武蔵の死後、100年以上後に書かれた武蔵の伝記『ニ天記』が初出である。 また、武蔵を宗矩の師匠とし、無刀取りを試そうとした宗矩を「師にむかひて、表裏別心ありや」と叱り付け、謝らせたという話がある。なお、同時代の史料の中に、武蔵が宗矩の面識を得ていたことを示す記述は確認できない。 小野派一刀流(小野忠明(小野次郎右衛門),小野忠常) 一刀流の逸話の中には、秀忠の指南役として宗矩と相役であった一刀流二世・小野忠明が、宗矩に勝った事で、指南役としての地位を手に入れたという逸話がある。一方、史実において忠明は宗矩より先(文禄2年(1593年))に仕官している。なお、この逸話の出典は一刀流内部の伝記『一刀流三祖伝記』である。 また、同じく『三祖伝記』には、宗矩から忠明の剣を見たいと頼まれて柳生家に出向いたところ、宗矩本人が仕合せず、息子の十兵衛や高弟達が出てきたので、これをまとめて相手にしたという逸話がある。なお、この後、十兵衛が木刀を置き、「忠明殿の剣は水月の如し。到底拙者では敵い申さぬ」と平伏し、村田与三と共に忠明に入門したという顛末になっているが、十兵衛本人の著作や関連する書状に、忠明との関係を伺わせる記述はない。 同じく一刀流の逸話の中には、忠明が宗矩に対し、「剣の修行のためには人を斬らせるのが一番である。罪人を貰い受け、ご子息に斬らせてはいかがであろうか」と述べたところ、宗矩は「いかにも、いかにも」と答えたものの、実際にはそのようなことをしなかったというものがある(「日本剣道史」) この他、忠明、またはその後を継いだ小野忠常が(宗矩と違い)将軍相手にも手加減をしなかったことで不興を買ったために加増されず、宗矩と差がついたと記されている[要出典]。ただし、史実においては、相役となって以降の忠明、及び忠常には特に旗本としての功績もなく、また忠明については同僚との諍いが元で閉門を受けたことなどに鑑みると、上がらないことに不思議はなく、多分に自己正当化の側面が強いと言える。 伊藤派一刀流(根来重明) 『刀術流系』では、伊藤派一刀流の根来重明が徳川家宣に召し抱えられるところを、その前の仕合で重明に負けた「柳生但馬守」がこれを讒言したので沙汰止みとなった、という逸話がある。なお、家宣の生誕前に既に宗矩は亡くなっており、また家宣の統治期間中に「但馬守」を名乗った柳生家当主は存在しない。 富田流(富田重政) 富田流の宗家富田重政と宗矩の立ち合いを家光が望んだ際、重政が「これは但馬守も承知の上か」と不審に思い、「本当によろしいか」と確認した後、直前で沙汰止みとなったという[要出典]。 タイ捨流(丸目長恵(丸目蔵人)) タイ捨流の流祖丸目長恵が、新陰流の正統をかけて宗矩に直談判し、東国では柳生が、西国では丸目が天下一を名乗ることを認めさせたという逸話がある。ただし、その西国(九州)の大藩である熊本藩細川家、佐賀藩鍋島家において当主自ら柳生新陰流に入門し、大いに隆盛したこと、およびその両藩(特に丸目の住地である人吉藩に隣接する熊本藩)で上記逸話を証する史料は存在しない。一方で、上泉信綱より丸目宛に「西国の御指南は貴殿に任せおき候」と記された書状がある。 示現流(東郷重位) 示現流の伝承には、流祖である東郷重位が、元和のころ、宗矩の高弟で将軍に指南をしていたという旗本の福町七郎右衛門、寺田小助を破り、試合後、両人から入門の誓紙を受けたとするものがある[要出典]。ただし、この出来事、及び、この両旗本の名は『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』では確認できない。 無住心剣流(針ヶ谷夕雲) 無住心剣流の逸話には、宗矩が無住心剣流流祖・針ヶ谷夕雲に対して「其の方の只今兵法の理に立向て勝ちを得べき覚えなし」と賛嘆し、試合を避けたというものがある。 二階堂兵法(松山主水) 二階堂平法の松山主水が細川忠利に技を教授したところ、忠利が宗矩に対して、ときに勝ちを取れるようになり、急に腕が上がったのを宗矩が不思議がったという話がある[要出典]。 尾張柳生(柳生利厳(柳生兵庫助)) 尾張柳生家の主張では、柳生宗家(本家)を継いでいるのは嫡流の自家であり、傍流の江戸柳生家は分家であるとしている。しかし、戦国時代においては、嫡男は必ずしも長男の事を指すとは限らず、当主の決定によって変えられることが多々あり、関が原の後、所領を取り戻した宗厳が所領全てを宗矩一人に継がせていることから見て、血筋だけを以って宗家を主張するのは無理があると言える。また『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』、及び『本朝武芸小伝』『撃剣叢談』などの江戸時代に書かれた記述において、石舟斎の嗣子(嫡男)とされているのは一貫して宗矩であり、尾張柳生家を柳生宗家と認めている記述は無い(利厳の父、新次郎厳勝は廃嫡されている)。 同じく尾張柳生家では、石舟斎が自らの正統と認め自身の技法をあますことなく伝えたのは、新陰流正統の証である「一国一人の印可」と「新影流目録」を継承した利厳のみであり(柳生厳長『正傳新陰流』)、宗矩や他の上泉の門弟が伝える系統は傍流であるとしている。これに対し今村嘉雄は、「一国一人」とは日本に一人という意味では無く甚だ稀なという修辞の意味であり、「新影流目録」に類する目録も疋田景兼や丸目長恵といった石舟斎以外の信綱の門弟にも与えられていることから、これらに新陰流正統の証の意味合いがあったとは考えづらいと主張している。また石舟斎の道統についても、尾張柳生家に伝えられた目録等は全て江戸の柳生家にも伝わっており、宗矩と利厳等に皆伝されていると考えるのが妥当であるとしている。なお『本朝武芸小伝』、『撃剣叢談』などにおいて、尾張柳生家の新陰流を新陰流正統と認めている記述は無く、どちらも宗厳の新陰流の後継は宗矩としている。
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