人智学発展の第1段階(1902年-1909年)
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「ルドルフ・シュタイナー」の記事における「人智学発展の第1段階(1902年-1909年)」の解説
1902年(41歳)、1月17日に神智学協会の会員となる。7月、女優マリー・フォン・ジーフェルス(1867年-1948年)と共にロンドンでの第13回ヨーロッパ支部年集会に出席。 9月には昨年に自身が行った講義を編集した『神秘的な事実としてのキリスト教と古代の秘儀』 (GA8) が出版される。 10月19日、「神智学協会ドイツ支部」が設立され、シュタイナーは事務総長に就任。 1903年(42歳)、年頭にゼー通り40番に転居。3月、「建築家の家」という会場にて公開講義を開始し、この活動は1918年まで続く。 5月、雑誌『ルツィファー』(後の『ルツィファー=グノーシス』)を創刊し、その出版にあたる(そこでの記事は GA34 に収録)。ワイマール、ケルン、ハンブルクなどのドイツ各地でも活動を始める。 10月、モッツ通り17番に再び転居(現在かれらの記念プレートが掛かっている)。 1904年(43歳)、5月、『神智学 - 世界についての超感覚的知識と人類の目的への序文』 (GA9) を出版。それまでは自身の世界観を明らかにしていなかったが、この著作によって自身の思想の根幹を初めて公にした。雑誌『ルツィファー』はウィーンの雑誌『グノーシス』と合併して『ルツィファー=グノーシス』に改名。6月、現代人にふさわしい、霊的感覚を啓発するための修行法を示す『いかにしてより高次の認識を獲得するか』と題する連載を開始し、当初予定よりも倍近く長く続き(翌年まで続く)、後に一冊の本 (GA10) として出版される。 7月からは同誌にシュタイナー自身の霊視によって観察した宇宙や人間の進化の様子を描いた『アカシャ年代記より』 (Aus der Akasha-Chronik) の連載が始まるが、この内容が生前に一冊の本として出版されることはなかった。同月、アムステルダムにて神智学会議に出席。この年、マルクス主義の立場をとる労働者教養学校側から、神秘思想家であるシュタイナーへの反対意見が生まれたが、生徒の支持が強く授業は続行されることになる。 1905年(44歳)、1月21日、同校指導部からの妨害により退職。5月7日、神智学協会の創始者ヘレナ・P・ブラヴァツキーについて「霊的使命を持った人物は人々から生涯の外的側面によって判断されるため必然的に、はじめは誤解を、否、誹謗を受けざるを得ない」という旨を述べる。 10月、ロンドンでの神智学会議に出席する。 1906年(45歳)、ベルリン以外では初めての連続講義をパリにて開催。エドゥアール・シュレー(フランス語版)に初めて逢ったのもこの時期である。7月にはパリでの神智学会議に出席。フランクフルト・アム・マインやブレーメンなど、ドイツ各地での神智学協会のロッジ設立に関わる。 1907年(46歳)、神智学協会会長であるヘンリー・スティール・オルコット(1832年-1907年) が2月17日に死去し、アニー・ベサントが第2代会長に就任する。5月、シュタイナーが協会に参加してから初めてのドイツでのヨーロッパ支部連合神智学会議は、ミュンヘンで開かれる。シュタイナーはそこでのインテリア設計を請け負い、自身の思想を建築的空間に可視的に表現することを試みる。シュレー作の『エレウシスの神聖劇』も上演される。 1908年(47歳)、8月1日、マリー・フォン・ジーフェルスは「哲学=神智学出版」(後に「哲学=人智学出版」)を設立する。この年にシュタイナーは初めてスカンディナヴィア地方を旅し、同時に各地で講義活動を行う。 1909年(48歳)、ドイツの詩人クリスティアン・モルゲンシュテルン(1871年-1914年)に出会う。8月、ミュンヘンでシュレー作の『ルシファーの子供たち』を上演。 12月、自身の精神科学研究の集大成とも呼べる『神秘学概論』 (GA13) を脱稿。
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