研究の集大成とは? わかりやすく解説

研究の集大成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 00:52 UTC 版)

金田一京助」の記事における「研究の集大成」の解説

1931年昭和6年)、京助畢生大著ユーカラ研究アイヌ叙事詩I・II刊行される京助晩年随筆『私の歩いてきた道』では、「岡書院岡茂雄再三頼まれ昭和5年執筆6年出版7年恩賜賞受賞した」と回想している。しかし岡が晩年記した回顧録本屋風情所収の「『アイヌ叙事詩ユーカラ研究生誕実録」では異な事情書かれている最初京助これまでのユーカラ研究欧文博士論文として東京帝国大学提出したが、審査適任者を欠くまま大学附属図書館置かれているうち、関東大震災焼失する。これを惜しんだ柳田國男は、懇意にしていた岡茂雄助力依頼。岡は震災後バラック住んでいた京助訪ねる。岡の励まし協力により、京助邦文新たに書き直した。岡の斡旋により、渋沢敬三からは毎月50円出版の際は東洋文庫からも研究費京助届けられたりもした。こうして2巻合わせて1458ページ大著出来上がった。岡は前述の『本屋風情』の中で京助柳田渋沢配慮触れず、あっさり書いたように流していることを「心底から残念に思っている」と書いている。 1930年昭和5年幸恵の弟知里真志保京助頼って上京一高入学その後東大言語学科を卒業久保寺逸彦次いで京助アイヌ語研究2番目の弟子となる。 1943年刊行された『明解国語辞典』はベストセラーとなる。見坊豪紀は『辞書をつくる』(玉川選書)の中で「京助先生お名前借りて世に行われている国語辞書十指に余る。その多くは、先生お人柄につけ入って単にお名前利用としたに過ぎないのである」とし、「その中にあって、最後一行までじっさいに目を通して責任分かたれたのは『明解国語辞典』だけである」と書いている。しかしほぼ見坊の独力により編纂されたものの、当時まだ東京帝国大学大学院在学中院生の名で辞書を出すわけにもゆかず、三省堂に見坊を紹介してくれた京助名を借りることにした。京助長男でやはり言語学者金田一春彦によると、「金田一京助 編」と銘打った辞書は多いが、名前を貸しただけのことで、実際にはほとんど手がけていないという。 戦局悪化する中、京助日本勝利を信じて疑わなかった。東京空襲を受けるようになり、結婚して家を離れた長男春彦疎開をすすめ、奥多摩服部四郎用意した部屋静江若葉蔵書預けた。さいわい京助宅は空襲焼けず、終戦後3人の生活が戻った1949年昭和24年12月24日若葉玉川上水自殺若葉前年結婚していたが、体が弱く生きていく自信なくなった遺書残して入水した

※この「研究の集大成」の解説は、「金田一京助」の解説の一部です。
「研究の集大成」を含む「金田一京助」の記事については、「金田一京助」の概要を参照ください。

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