研究の集大成
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1931年(昭和6年)、京助畢生の大著『ユーカラの研究:アイヌ叙事詩』I・IIが刊行される。京助の晩年の随筆『私の歩いてきた道』では、「岡書院の岡茂雄に再三頼まれ、昭和5年執筆、6年出版、7年恩賜賞を受賞した」と回想している。しかし岡が晩年に記した回顧録『本屋風情』所収の「『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』生誕実録」では異なる事情が書かれている。最初、京助はこれまでのユーカラ研究を欧文の博士論文として東京帝国大学へ提出したが、審査の適任者を欠くまま大学附属図書館に置かれているうち、関東大震災で焼失する。これを惜しんだ柳田國男は、懇意にしていた岡茂雄に助力を依頼。岡は震災後バラックに住んでいた京助を訪ねる。岡の励ましと協力により、京助が邦文で新たに書き直した。岡の斡旋により、渋沢敬三からは毎月50円、出版の際は東洋文庫からも研究費が京助に届けられたりもした。こうして2巻合わせて1458ページの大著が出来上がった。岡は前述の『本屋風情』の中で京助が柳田や渋沢の配慮に触れず、あっさり書いたように流していることを「心底から残念に思っている」と書いている。 1930年(昭和5年)幸恵の弟知里真志保が京助を頼って上京、一高に入学。その後東大言語学科を卒業、久保寺逸彦に次いで京助のアイヌ語研究2番目の弟子となる。 1943年に刊行された『明解国語辞典』はベストセラーとなる。見坊豪紀は『辞書をつくる』(玉川選書)の中で「京助先生のお名前を借りて世に行われている国語辞書は十指に余る。その多くは、先生のお人柄につけ入って単にお名前を利用としたに過ぎないものである」とし、「その中にあって、最後の一行までじっさいに目を通して責任を分かたれたのは『明解国語辞典』だけである」と書いている。しかしほぼ見坊の独力により編纂されたものの、当時まだ東京帝国大学大学院に在学中の院生の名で辞書を出すわけにもゆかず、三省堂に見坊を紹介してくれた京助の名を借りることにした。京助の長男でやはり言語学者の金田一春彦によると、「金田一京助 編」と銘打った辞書は多いが、名前を貸しただけのことで、実際にはほとんど手がけていないという。 戦局が悪化する中、京助は日本の勝利を信じて疑わなかった。東京が空襲を受けるようになり、結婚して家を離れた長男の春彦は疎開をすすめ、奥多摩の服部四郎の用意した部屋に静江と若葉、蔵書を預けた。さいわい京助宅は空襲で焼けず、終戦後3人の生活が戻ったが1949年(昭和24年)12月24日、若葉は玉川上水で自殺。若葉は前年結婚していたが、体が弱く生きていく自信がなくなったと遺書を残して入水した。
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