研究の開始とその進展
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1947年の写本発見から2年がたっても、研究者たちは、写本の出所である洞窟の発見にすら至っていなかったが、国連休戦監視部隊のベルギー人将校フィリップ・リッペンス (Phillip Lippens) 大尉らが、ベドウィンから情報を得て洞窟(第1洞窟)を発見した(1949年1月28日)。委任統治領時代にイギリスによって設立されたヨルダン考古局 (Jordanian Department of Antiquities) の長官ジェラルド・ランケスター・ハーディング (Gerald Lankester Harding) は、同地域の考古学遺跡を管轄していたため、このニュースを聞いてクムランの洞窟探索を企画し、エルサレム・フランス聖書考古学学院 (École Biblique) の所長で、ヘブライ語聖書の専門家のドミニコ会司祭ロラン・ド・ヴォー(英語版) (Roland De Vaux) を誘った。1949年2月から3月にかけて二人の指揮のもと、アメリカ・オリエント学研究所も協力して第1洞窟が調査され、残っていた数百の写本断片が回収された。 その頃、ベドウィンたちも周辺の洞窟の探索を続け、考古学者たちを出し抜くようにさらなる写本を発見する。1952年に新たな写本が市場にでたことから、ド・ヴォーの指揮下でフランスとアメリカの考古学者たちが共同で周辺の洞窟群を調査、新たに5つの洞窟(第2〜第6洞窟)から写本を回収した。第3洞窟から発見された異色の発見物は「銅の巻物」と呼ばれるもので、その名のとおり薄い銅版に文字を刻んで巻物のように丸めたものであった(銅の巻物には金を含む財宝の隠し場所が記されていて話題となったが、巻物に記された「財宝」は一つも発見されていない)。また第4洞窟からは膨大な量の断片が発見され、それらをつなぎあわせて600の巻物が復元された。これは死海文書の実に4分の3にあたる。以後、ヒルベト・クムラン遺跡を含めて、周辺の調査が続けられたが、洞窟からの写本の発見は1956年の第11洞窟の発見が最後になった。 死海文書の研究は、特定の教派によらない超教派による国際的な委員会によって行われることになった。ド・ヴォーが委員会のリーダーになり、ヨゼフ・タデウス・ミリク(Josef Tadeus Milik、ポーランド、カトリック司祭(後に還俗)、文献学)、パトリック・スキーハン(Patrick Skehan、アメリカ、カトリック司祭、聖書学)、ジャン・スタルキー(Jean Starcky、フランス、カトリック司祭、アラム語研究、パリ国立科学研究センター)、モーリス・ベイェ(Maurice Baillet、フランス、カトリック司祭、パリ国立科学研究センター)、フランク・ムーア・クロス(Frank Moore Cross Jr、アメリカ、プロテスタント長老派、後にハーバード大学教授)、クラウス・フンツィンガー(Klaus Hunzinger、ドイツ、プロテスタント(ルター派)、ゲッティンゲン大学)、ジョン・アレグロ(英語版)(John Marco Allegro、イギリス、メソジスト派(のちに無神論者)、オックスフォード大学)、ジョン・ストラグネル(英語版)(John Strugnell、イギリス、英国国教会、後にハーバード大学)、そして後にド・ヴォーの後継者に指名されるピエール・ベノワ(英語版)(Pièrre Benoit、フランス、カトリック司祭(ドミニコ会))といった気鋭の学者たちが集結した。委員会の研究成果は『ユダの荒野の発見物(英語版)』(Discoveries In The Judaean Desert、DJDと称す)叢書としてオックスフォード大学出版局から出版されることになった。 1951年にはド・ヴォーの指揮によるヒルベト・クムランの本格的な発掘調査も開始された(簡単な調査に限っていえば1949年に一度行われている)。調査チームはそこで洞窟にあったものと同じタイプの壷を発見し、ド・ヴォーは死海文書を作ったのがクムラン教団であることを確信した。調査は1956年まで断続的に続けられたが、第二次中東戦争の勃発(1956年10月29日)によって中止された。遺跡の最後の調査は1958年に行われている。
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