研究の道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 05:01 UTC 版)
上野が一生にわたり研究することになる、地下浅層に棲む盲目チビゴミムシとの出会いは、1949年秋だった。小さなバイアル管に入った4頭のチビゴミムシがそのきっかけとなる。 その標本は、上野の指導教官であった洞窟生物学の権威、吉井良三が1939年に京丹波町の質志鍾乳洞で採集したもので、当時は全く知られておらず画期的な発見だった。上野は、1951年にこれらの標本のデータを元に、自身で採集した標本をタイプ標本として新属新種ヨシイメクラチビゴミムシ Yoshiitrechus ohshimai S. Uéno, 1951を命名記載した。 この発見は今後の人生を決定付けた。幸いなことに、京都大学の同級生に高知県と栃木県出身の者がおり、彼らからその地域の洞窟や鍾乳洞について様々な情報を得ることができ、それぞれの故郷に上野を招待してくれた。 1950年(昭和25年)の春先には、上野の人生初の四国の洞窟への採集旅行に出発する。最初に訪れた洞窟は高知県香美市の龍河洞であったが、天然記念物に指定されており、当然採集はできなかった。しかし、翌日に日本の洞窟生物学の先駆者である高知女子大学の石川重治郎と出会い、石川の図いで龍河洞での調査許可を得られる見込みとなった。さらに、5ヶ所の洞窟に「めくらの」2種の洞窟性ゴミムシが棲息し、採集されていることを知る。石川の案内で、上野はそれを観察・採集することができた。 なお、この2種は同年に農業技術研究所の土生昶申によってリュウガドウメクラチビゴミムシ Ryugadous ishikawai Habu, 1950、ホラアナヒラタゴミムシ Jujiroa nipponica (Habu, 1950)として記載された。 この採集旅行は、成功裏に終わり、洞窟に入ることへの不安は吹っ飛び、洞窟調査への自信をもつことができたという。上野は、京都に帰るとすぐにヨシイメクラチビゴミムシが採集された質志鍾乳洞の調査に乗り出した。高知での経験が多いに生かされ、良い成果を得ることができた。 そこで、調査が行われていなかった鈴鹿山脈にあるいくつかの洞窟を調査してみた。すると、今まで知られていなかった複数のメクラチビゴミムシの新分類群に属する種を採集することができたのである。 これには父・益三はもちろん、師匠筋である吉井良三や江崎悌三も非常に驚かされた。成果を知った皆が日本の洞窟には赤い宝石たちが棲んでいて、日本中にまだ見ぬ新種がたくさん潜んでいることを確信した。 これらの初期の研究成果は1952年になって「New cave-dwelling trechids of Japan (CoIeoptera, Harpalidae)」と「On a cave-dwelling sphodrid found in Japan (Coleoptera, Harpalidae)」の2本の論文として出版された。
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