研究の転機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 13:31 UTC 版)
死去したド・ヴォーの後を継いで1972年にピエール・ベノワ(英語版)が委員会のリーダーになると、作業の遅れが公然と非難されるようになる。1972年8月9日付の『ニューヨーク・タイムズ』は死海文書を特集し、その中で新しい編集主幹は公刊の遅れによる「民衆の怒りを避けるよう」努力することを薦めた。しかし、ベノワが委員会の代表をつとめていた12年の間に出版されたのはわずか2冊のDJDだけであった。ベノワは健康上の問題を理由に1984年に辞任、ジョン・ストラグネル(英語版)が後を継いだが、その頃には委員会はメンバーが亡くなったり、辞任したりで人材が枯渇しており、委員会の実務能力はないに等しかった。 1987年は死海文書発見40周年の記念であったため、各国から死海文書研究と原典公刊の遅延を非難する声が再び巻き起こった(特に第4洞窟の文書の内容がまったく明らかにされていないことに世論の不満が高かった)。これを受けてフランス聖書・考古学研究所はジャン・バッティスト・アンベール(英語版) (Jean-Baptiste Humbert) をリーダーにした調査チームを立ち上げ、ド・ヴォーが残した死海文書とクムラン遺跡に関する膨大な調査記録の編纂を開始した(ド・ヴォーはクムラン遺跡発掘の報告書をまったく出版できずに世を去っていた)。 さらに死海文書を管理していたイスラエル古代遺跡管理局 (Israel Antiquities Authority, IAA) が、不適任という理由で1990年にストラグネルを委員会から外し、ヘブライ大学教授エマニュエル・トーヴ(英語版) (Emanuel Tov) を新しい委員長に任命した。トーヴは手始めに委員会の人数を60名に増員し、世界中から優れた学者たちを招聘した。トーヴの強力なリーダーシップのもと、世界が待ち望んでいた死海文書の公刊は急速に進展することになる。一方でトーヴはド・ヴォーの「公刊されるまで委員会以外に文書の内容を示さない」というルールを継承しようとしていた。しかし、1991年9月4日にアメリカのオハイオ州シンシナティにあるヒブル・ユニオン・カレッジに保管されていた死海文書の写真が『死海巻物未公刊本文予備版』と題して出版された。これを受けて、9月22日にはカリフォルニア州パサデナにあったハンティントン・ライブラリーも保管していた死海文書の写真版の公開を決定。イスラエル古代遺跡管理局 (IAA) は当初法廷闘争を企図したが、世論に配慮して方向転換し、9月25日に「死海文書の写真の自由な利用を認める」旨を発表した。最初の発見から44年をへて、初めて死海文書の全容が世界に示された(これらの死海文書の写真は、中東戦争時に損傷を恐れてアメリカで保管されていたものだった)。
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