人智学発展の第3段階(1917年-1923年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 03:05 UTC 版)
「ルドルフ・シュタイナー」の記事における「人智学発展の第3段階(1917年-1923年)」の解説
1917年(56歳)、以降、シュタイナーの活動は実践的な社会運動へと及ぶ。シュタイナーは自ら理念を携えて、さまざまなな社会生活の領域に登場した。この年、彼の中に社会有機体三分節化論の理念が浮かび、その実現に勤しむが徒労に終わる。 1918年11月11日、第一次世界大戦終結。 1919年(58歳)、社会有機体三分節化論に賛同したシュトゥットガルトのタバコ会社工場主エミール・モルトから、従業員の師弟教育のために学校設立を依頼される。同年春、『ドイツ国民と文化世界へのアピール』を出版。 9月7日、シュトゥットガルトに「自由ヴァルドルフ学校」を開校。 12月23日から翌年1月3日にかけて同地で第一回自然科学講座が開催される。 1920年(59歳)、3月21日から4月9日にかけて第一回医学講座がドルナハにて開かれる。これによってシュタイナーは、イタ・ヴェーグマンと共に人智学医学(シュタイナー医学)の創始者とされることになった。ドイツに株式会社「来るべき日」、スイスに「フトゥルム」を設立。9月26日午後5時、ゲーテアヌム開館。この頃から毎週のように人智学非難の記事が新聞に掲載されるようになる。 1921年(60歳)、2月、月刊誌『ディ・ドライ』を創刊。4月、治療オイリュトミー講座を開く。 6月、ドルナハの隣町アルレスハイムに、イタ・ヴェーグマンによって「臨床治療研究所」が開設される。 8月、週刊誌『ダス・ゲーテアヌム』を創刊。この頃、自伝を書く。 11月、ノルウェーのオスロ大学で「経済の根本問題」と題して講演。 1922年(61歳)、7月24日から8月6日、「国民経済学講座」が開かれる。9月にキリスト者共同体の創設に寄与する。 12月31日午後10時、火災によってゲーテアヌムが炎上、翌朝焼失。 1923年(62歳)、1月、体調が優れない中、週刊誌『ゲーテアヌム』で自伝『我が生涯の歩み』 (GA28) の連載を始める(翌々年の自身の死によって中断し、未完に終わる)。12月25日から翌1924年1月1日、降誕祭会議を開催。それまでの人智学協会を刷新し、普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)を新しく発足させる。その心臓部となる「精神科学自由大学」(翌年2月15日第一講開催)を設立する。本部はゲーテアヌムに置くものとされた。
※この「人智学発展の第3段階(1917年-1923年)」の解説は、「ルドルフ・シュタイナー」の解説の一部です。
「人智学発展の第3段階(1917年-1923年)」を含む「ルドルフ・シュタイナー」の記事については、「ルドルフ・シュタイナー」の概要を参照ください。
- 人智学発展の第3段階のページへのリンク