人智学発展の第2段階(1910年-1916年)
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「ルドルフ・シュタイナー」の記事における「人智学発展の第2段階(1910年-1916年)」の解説
1910年(49歳)、年頭、後にシュタイナーの主著となる『神秘学概論』を出版。前著『神智学』にはなかった宇宙進化論を記載。8月、ミュンヘンで神秘劇第一部『秘儀参入の門』が上演される。これ以降、シュタイナーの活動は建築、彫刻・彫塑、絵画、音楽、言語芸術(言語造形)、運動芸術(オイリュトミー)などの各芸術分野に及ぶ。 1911年(50歳)、1月、アニー・ベサントは養子のインド人少年ジッドゥ・クリシュナムルティ(1895年-1986年)をトップとする「東方の星教団」をインドで設立。ベサントの右腕チャールズ・W・レッドビーターが彼を見出して教育し、“来るべき世界教師”が降臨するための“乗り物”であるとされた。3月、妻のアンナ・シュタイナーが他界。 8月、ミュンヘンで神秘劇第二部『魂の試練』が上演される。 1912年(51歳)、8月、神秘劇第三部『境域の守護者』が上演される。同月、新しく作られる協会の名称として「人智学」(アントロポゾフィー)を提案する。9月、人智学が生み出した最も有名な運動芸術オイリュトミーの形成が始まる(正確には1908年5月の時点ですでにその胎動が見られる)。「アントロポゾフィー協会」(人智学協会)設立の準備を始める。 12月、ドイツ神智学協会のシュタイナーのグループは、神智学協会のリーダー、新たな救い主としてインド人のクリシュナムルティを認めることを拒み、神智学協会を脱退する。同月28日、シュタイナーはケルンで人智学協会を設立する。人智学協会は、ドイツ外の国々の神智学協会とも繋がりをもつようになっていく。『人智学的魂の暦』が出版される。 1913年(52歳)、2月3日、人智学協会第一回総会がベルリンにて開催される。建設省の芸術担当者の反対により、「ヨハネス建築」(後にゲーテアヌムと呼ばれる建物)の着工ならず。5月中旬に建築候補地としてバーゼル近郊のドルナハが挙がり、同18日にそれを決断。 8月にはミュンヘンにて神秘劇第四部『魂の覚醒』が上演される。 9月20日、ゲーテアヌムの礎石奉納の儀式を行う。 1914年(53歳)、3月31日、無二の友人であり最も良き理解者であった詩人クリスティアン・モルゲンシュテルンを亡くす。7月28日、第一次世界大戦勃発。 12月24日、マリー・フォン・ジーフェルスと再婚。1914年から1923年にかけてシュタイナーはベルリンとドルナハを行き来し、両都市をその居住地とする。 1915年(54歳)、ゲーテアヌムの舞台の背景の中心に据えられるべき「人類の典型」と題する彫刻の製作に取りかかる。ゲーテアヌムの大小二つの天井画を描く。
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