京都初の映画常設館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 16:40 UTC 版)
1910年(明治43年)10月、京都府京都市下京区(現在は中京区域)の新京極四条上ル仲之町の第二京極と呼ばれた地区に、松竹合名(現在の松竹)が芝居小屋八千代館として開館した。新京極界隈を古くから所有していた金蓮寺が宇治郡へ移転(その後、北区に移転)したため、その跡地に建設された。同社は同館を開館した2か月後の翌1911年(明治44年)1月1日付で、日活の前身の一社である東京・京橋区の吉沢商店に賃貸に出し、これを映画常設館とした。映画の常設上映は、京都府内では初のことであった。同年5月には、西陣京極の國華座も吉沢商店に賃貸し、これを第二八千代館、同館を第一八千代館と改称している。第二京極の狭い地区には、同年1月に横田商会が中央電気館(のちの大正座あるいは中央映画劇場)を角力常設館として新設したほか、三友倶楽部(のちの京極東宝)、新富座(のちの京極大映、合併して京極東宝)等の芝居小屋・映画館がひしめき合っていた。「港町キネマ通り」の同館の記事には「歌手の“ばんばひろふみ氏”のお爺さんが創設された」と記載されているが、同人物がだれにあたるのかは不明である。 1912年(大正元年)9月10日、吉沢商店が他の3社と合併し日活を形成、その後は日活が引き続き賃借していたが、1915年(大正4年)、同様に日活が松竹から賃借していた京都歌舞伎座(のちのSY松竹京映、新京極四条上ル)、みかど館(のちの菊水映画劇場、新京極蛸薬師北入ル)、第二八千代館(のちの西陣八千代館、西陣京極)とともに、松竹へ返還された。返還後の同館は、天然色活動写真(天活)の作品を興行した。松竹が松竹キネマを設立し、映画を製作・配給し始めるのは1920年(大正9年)であり、当時は映画については興行のみの会社であったからである。1925年(大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・四年』によれば、大正末期の同館は、1923年(大正12年)12月に設立された東亜キネマの作品を興行する映画館になっていた。当時の新京極には、同館を含めてすでに8館の映画館が営業しており、マキノキネマ(のちの新京極シネラリーベ)が同館同様に東亜キネマ、同館の正面に位置した中央館および松竹座(のちの京都松竹座、新京極三条下ル)、歌舞伎座が松竹キネマ、富士館(新京極四条上ル)が帝国キネマ演芸、帝國館(のちの京都日活映画劇場、新京極錦小路上ル)が日活、京都キネマ倶楽部(のちの菊水映画劇場)が自由興行として輸入映画を上映していた。 昭和に入り、1927年(昭和2年)に発行された『日本映画事業総覧 昭和二年版』によれば、当時の同館の経営は八千代キネマ株式会社、支配人は藤田嘉市、興行系統は帝国キネマ演芸およびユニバーサル映画、観客定員数は780名であった。当時の同館では、『燃え立つ戦線』(英語: The Flaming Frontier, 監督エドワード・セジウィック(英語版)、1926年)、『白河小天狗』の前篇・後篇(監督唐沢弘光、製作配給帝国キネマ演芸)、『愛の富士』(監督松本英一、製作配給帝国キネマ演芸)が公開された記録が残っている。同資料によれば、同館は、第二八千代館、伏見大手座(のちの伏見大手劇場)とともに、小林喜三郎の小林商会の系統を意味する「小林系」に分類された。第二八千代館が西陣八千代館と館名を変更した1928年(昭和3年)前後には、八千代館に館名を戻している1929年(昭和4年)4月1日には、同館の所在する地域が下京区から分区して、中京区を形成している。同年の情報が掲載され1930年(昭和5年)に発行された『日本映画事業総覧 昭和五年版』によれば、同館の支配人は藤田嘉市のままであるが、経営が寺田キネマに変わり、興行系統は「洋画」、観客定員数は850名と記載されている。寺田亀太郎のを代表とする寺田キネマは、同資料によれば、京都市内外に同館のほか、第二京極と伏見丹波橋に2つの中央館(のちの中央映画劇場、および伏見キネマ)、壬生館(のちの壬生東宝映画劇場、仏光寺通千本西入ル)、寶座(西九条猪熊町)、昭和館(のちの西陣昭和館、千本通下長者町上ル)、堀川中央館(堀川京極)、葵館(出町)、伏見松竹館(のちの伏見映画劇場、伏見風呂屋町)の合計9館を経営した旨の記載がある。 1937年(昭和12年)2月1日、同館がマキノ正博が経営するマキノトーキーの直営封切館になる。田村邦男、大内弘ら所属俳優による記念披露アトラクションが、同館で連日行われた。同月14日 - 16日の間には、コロムビア映画製作のアメリカ映画『銃弾の洗礼』(監督デイヴィッド・セルマン)の上映とともに、マキノトーキー所属の女優・久松三津枝の男装主演による『勤王の志士半平太』(作演出・田丸重雄)の実演を行っている。同年4月には同社は解散しており、同年8月8日付の『京都日日新聞』によれば、同月1日からは馬淵興行(代表・馬淵弘)に経営が移り、同館では水田雅晴演出によるムーランルージュの実演を上演している。
※この「京都初の映画常設館」の解説は、「京都八千代館」の解説の一部です。
「京都初の映画常設館」を含む「京都八千代館」の記事については、「京都八千代館」の概要を参照ください。
- 京都初の映画常設館のページへのリンク