京都制圧計画とは? わかりやすく解説

京都制圧計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 17:00 UTC 版)

八月十八日の政変」の記事における「京都制圧計画」の解説

小笠原長行鎖港通告対す列国公使抗議5月12日幕議報告した。そして急進的な攘夷論一掃するため、武力をもって京都制圧する計画打ち出した構想前年からあったし、3月には英仏公使からも提案されていた。前年始まった軍制改革によって洋式武装した騎兵歩兵・砲兵1千余を横浜幕府艦とイギリス艦計5隻に乗せ29日兵庫上陸6月1日淀まで進み京都情勢うかがった将軍直率の兵と京都守護職会津藩兵などが合流すればかなりの力になる朝廷騒然となり、将軍にこれを抑えさせ、東帰も認めこととした。結局武力制圧空振り終わり小笠原ら幕兵の幹部罷免蟄居処分受けたが、ようやく将軍取り戻すことはできたのだった家茂6月8日下坂し、13日海路関東向かった。 これより先、越前帰国した松平春嶽は、破約攘夷実行されれば、反発する列国艦隊大坂湾送り込み朝廷威圧する事態招きかねない危機感抱いていた。そこで横井小楠が挙藩上洛計画という思い切った献策を行う。不測の事態が起こる前に越前が藩を挙げて上洛し、暴論抑え将軍関白から草莽まで含めて主だった者を一同に集め各国公使主張聞き取り互い条理理解究め尽くした上で、後は鎖港開港か、和親戦争かいずれに決しようとも一致して進めようという。これは越前全藩が身も国も捨てあたらねばならぬ大難事であり、隣国加賀横井故郷肥後、旧一橋派同志薩摩などに呼びかけ、ともに決行しようというのである。その成功先には、朝廷政府任免し、幕府限らず有能な諸侯諸藩人材登用する新体制構想していた。5月26日に藩議は決定し6月1日計画家中布告された。ところがその後将軍江戸帰ることになり、これまで将軍の上洛中理由延期していた藩主松平茂昭江戸参勤議論になった

※この「京都制圧計画」の解説は、「八月十八日の政変」の解説の一部です。
「京都制圧計画」を含む「八月十八日の政変」の記事については、「八月十八日の政変」の概要を参照ください。

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