主人公とその伴侶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 00:53 UTC 版)
新島八重(にいじま やえ) (山本八重 → 川崎八重 → 山本八重 → 新島八重) 演:綾瀬はるか(幼少期:鈴木梨央) 主人公。会津藩砲術師範・山本家の長女。米俵を軽く持ち上げるほどの腕力の持ち主で、性格は自由奔放かつ男勝り。 幼い頃から砲術に興味があり、父・権八に反対されながらも、兄・覚馬から銃の手ほどきを受け技能を伸ばし、新式銃の開発にも携わるようになる。また、模擬戦の追鳥狩を木に登って見学している最中に草履を落としてしまい、家老の西郷頼母に厳しく叱責された。覚馬の勧めもあり、川崎尚之助に嫁ぐ。 鶴ヶ城籠城戦では頼母から「城を守るために使え」という助言もあり男装して入城し、覚馬から贈られたスペンサー銃で戦い、活躍した。会津藩降伏後、生き残った藩士達と共に猪苗代での謹慎を望むが果たせず、米沢の内藤家に身を寄せ、この間に尚之助とは離縁。 覚馬に呼び寄せられ、家族とともに京都に移住し、女紅場(女性の手仕事を教える機関)で教師として働くこととなる。その後、東京で尚之助と再会し、復縁を望むが拒まれ、京都で待っていると告げ東京を後にしたが、尚之助は間もなく亡くなる。 失意の中、新島襄と出会い婚約するが、クリスチャンの襄と婚約したことで女紅場を解雇された。襄と再婚後は彼の興した同志社の経営にも関わり、彼の最期も看取る。 襄の死後、覚馬の勧めで篤志看護婦人会に入会。日清戦争では看護婦として負傷者の看病に当たり、終戦後にその活躍が評価され民間の女性初の受勲者となる。 川崎尚之助(かわさき しょうのすけ) 演:長谷川博己 洋学者。元出石藩士。 江戸の象山塾で山本覚馬と知り合い、共に学ぶ。覚馬の人柄に惚れ込み、彼が設立する蘭学所に誘われて会津を訪れ、そのまま山本家の居候となって八重、覚馬と共に新式銃の開発を行う。藩への仕官が叶えば兵制改革がより一層進むと考えた覚馬から八重との縁談を勧められ、八重と夫婦となる。 その後、働きが認められて会津藩への仕官が叶い、会津が戦火に巻き込まれる可能性を予測し、覚馬の計画を基に防衛策を練る。会津藩が着手した軍制の洋式化を中心となって進め、梶原らと共に奥羽諸藩との交渉にも参加した。 会津戦争では大砲隊を率いて戦い、八重と共に奮戦した。降伏後、猪苗代の謹慎所へ同行しようとした八重を逃がし、自らは謹慎所送りとなったのち斗南に渡った。 斗南藩の窮乏を掬うため米取引を行ったが、詐欺に遭って告訴され藩の指示を疑う警察に、全て自分の一存によるものと証言して責任を一身に背負って裁判を戦うこととなり、八重には事情を話せぬまま離縁。 その後、東京で八重と再会し、夫婦でなくていいから側にいたいという八重の申し出に対し、裁判が終わったら必ず京都に行くと約束するが、病の悪化によって死去。八重の事を最期まで案じていた。 生前、会津戦争の記録を綴った『會津戦記』をしたためており、後に山川兄弟がこれを基に『京都守護職始末』を編纂した。 新島襄(にいじま じょう) (新島七五三太 → 新島襄) 演:オダギリジョー(少年期:小林海人) 安中藩士・新島民治の子。前名は七五三太(しめた)。 アメリカに密航し、同地で学んだキリスト教の精神で内戦に傷ついた日本の復興を助けたいと願う。 帰国後、木戸孝允の紹介で京都にキリスト教を教える学校の設立を目指すが、仏教界の反発や府知事の槇村正直の非協力的な態度に苦労する。槇村の紹介で山本家に居候することになり、そこで八重と知り合う。襄は古い価値観に縛られない八重の奔放さに惹かれ、尚之助の死後、失意の内にあった八重を励ます中で絆が生まれ、結婚する。 山本覚馬や大垣屋の協力で念願の学校・同志社を設立し、校長に就任。教職員や生徒との対立、私学を規制しようとする政府の圧力に苦心しながら、八重との二人三脚で乗り越えていく。 同志社に大学を設立するための資金集めに奔走する中で、心臓の病が悪化し、最期は八重に看取られながら「グッバイ、また会いましょう。」と告げ、息を引き取った。
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