襄の死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 08:51 UTC 版)
襄の死から間もない明治23年(1890年)4月26日、八重は日本赤十字社の正社員となり、明治27年(1894年)の日清戦争では、広島の陸軍予備病院で4か月間篤志看護婦として従軍。40人の看護婦の取締役として、怪我人の看護だけでなく、看護婦の地位の向上にも努めた。明治29年(1896年)、その時の功績が認められ、勲七等宝冠章が授与された。日露戦争当時の赤十字看護婦の中に八重の写真がある。その後、篤志看護婦人会の看護学修業証を得て看護学校の助教を務め、明治37年(1904年)の日露戦争時には、大阪の陸軍予備病院で2か月間篤志看護婦として従軍し、その功績によって勲六等宝冠章が授与された。 明治40年(1907年)11月に新島旧邸を同志社に寄付する。
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