褝譲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:56 UTC 版)
徐温の没後、その権力は徐知誥と徐知詢が分けあうこととなる。徐知誥は揚州に、徐知詢は昇州にあり、両者の関係はあまり芳しくなかった。しかしながら、徐知詢も遊び好きな性格であり、揚州にあって呉の政治を行ってきた徐知誥の方が人望は厚く、諸臣も徐知誥の方を頼った。 乾貞3年(929年)、徐知誥は昇州の徐知詢を呉王の命と称して揚州に呼び出した。そして、徐知詢の兵権を奪い去った。その後、徐知詢が徐知誥の権力に挑戦することはなかった。 大和3年(931年)、徐知誥は昇州に移った。この地を後々の拠点とする為である。揚州での細かな政務は長男の徐景通に任せた。翌年には昇州の中心都市である金陵を大きく拡張した。 徐知誥は呉の政治を思うがままに操り、最後の仕上げとして、睿帝から禅譲を受け、自ら皇帝となろうとした。天祚元年(935年)には、尚父・太師・大丞相・大元帥・斉王となる。もはや禅譲は必至であった。 天祚3年(937年)3月、徐知誥は名前を徐誥に改めた。「知」の字は徐温の息子達に共通してつけられている字であり、これを外すことによって、他の兄弟とは格が違うということを示したのである。 8月、睿帝から禅譲の詔が発せられた。10月に徐誥は江寧(金陵のこと、1月に改称された)において即位し、国号を斉とした。
※この「褝譲」の解説は、「李昪」の解説の一部です。
「褝譲」を含む「李昪」の記事については、「李昪」の概要を参照ください。
- >> 「褝譲」を含む用語の索引
- 褝譲のページへのリンク