ロジャーズ案
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1970年6月19日、ウィリアム・P・ロジャーズ国務長官は継続中の消耗戦争を鎮静化するため、90日間の停戦とスエズ運河の両側に軍事的停戦地帯を設けるロジャーズ案を公式に提案した。それはイスラエルが1967年に占領した地域からの撤退を求め、両国が相互の主権と独立を認める国連決議242号の枠組みに基づいた合意に至るための努力であった。エジプト人はロジャーズ案を受け入れたが、イスラエルでは国内世論が分裂し、履行しなかった。彼らは連立政権内部から満足な支持を得られなかった。その年の初め、労働者階級が中心の左派政党連合アラインメントが国連決議242号と撤退のための平和を公式に受け入れたのに対し、メナヘム・ベギンと右派政党ガハルはパレスチナ地域からの撤退に断固反対し、政権第2党は1970年8月5日、政権から離脱した。究極的には、ロジャーズ案はニクソンからも満足な支持を得られず失敗に終わった。イニシアティブを求めないヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官のほうが好まれたからである。 1972年にソビエトの技術指導者がエジプトから引き揚げるという予想もしなかったことが起きたサーダート大統領の就任後も大きな変化は起こらず、また再びワシントンに交渉の意思ありとのシグナルを送った。外交の前線において進展の欠如に直面し、エジプトとの軍事的紛争に備え、ニクソン政権にもっと介入的になるよう望んだ。1973年10月、エジプトとシリアはアラブ諸国の支援を得て1967年の戦争以後占領された領土を奪還するためイスラエル軍を攻撃し、こうしてヨム・キプール戦争が始まった。 情報によると攻撃はエジプトとシリアからのものであったが、ゴルダ・メイア首相は先制攻撃をしないという物議を醸す決断をした。メイアには他の懸念材料よりも、イスラエルが唯一信頼するアメリカがイスラエルがまた新たな戦争を始めたと思ったら助けに来てくれるだろうかというアメリカへの不信があった。振り返ってみると、先制攻撃をしないという決断はおそらく有効なものであると思われた。のちに、ヘンリー・キッシンジャー国務長官が語ったところによると、イスラエルが先制攻撃しても「やりすぎだ」とは受け取らなかっただろうと回想している。1973年10月6日、ユダヤ人のヨム・キプールの休日に、エジプトとシリアはアラブの援軍とソ連の後押しとともにイスラエルに対する一斉攻撃を開始した。この結果起きた紛争はヨム・キプール戦争として知られる。始めのうち、エジプト軍はイスラエルの防衛線を突破してシナイ半島へ進軍し、スエズ運河の東側の海岸に拠点を築いたが、その後、シリアからイスラエル軍を一掃しようとしたときの大きな戦車戦で撃退された。そしてイスラエル軍はスエズ運河を渡った。大きな戦闘で両軍は巨大な損失を被った。それと同時に、シリアはゴラン高原のイスラエルの薄い守りをほとんど突破しようとしていた。しかし、実際にはイスラエルの援軍によって押し返され、逆にイスラエル軍はシリア領内へ突入した。イスラエルは制空権と制海権も奪い返していた。戦争に突入すると、メイアはイスラエルの核兵器の組み立てを承認した。これはアメリカの注意を惹くため、公然と行われたが、メイアはもしアラブの軍事技術がイスラエルより大きく先行することに成功すれば、核をエジプトやシリアの目標物に使用することをも承認していた。ソビエトはアラブ諸国の軍隊、主にシリアへの兵器の供給を再開した。ゴルダ・メイアはニクソン大統領に武器の供給の支援を求めた。ヘンリー・キッシンジャー国務長官はニクソンに「イスラエルに血を流させよう」と語った。3年後、キッシンジャーはニューヨーク・タイムズで物資の空輸を遅らせた理由について、彼が考えをめぐらせていた冷戦外交を和らげるために「イスラエルが十分な血を流す」のを見たかったからだと述べた。しかし、ニクソン大統領はときに「イスラエルを守る空輸作戦」と呼ばれるイスラエルに武器や物資を供給する大規模な戦略的空輸作戦(鋼の草原作戦 )を開始した。しかし、イスラエルは支援が到達するまでに勢力を挽回していた。 アメリカとソビエトは再び中東の紛争に巻き込まれるのを恐れていた。ソビエトはイスラエルが停戦ラインを超えた場合、エジプトに代わって軍事介入するとほのめかし、アメリカはデフコンのレベルを4から平和時の最高レベルである3に引き上げた。これはイスラエルがスエズ運河東側のエジプト第3陸軍に罠を仕掛け、追い込んだためである。 キッシンジャーはエジプト陸軍がイスラエルの攻撃から逃れられるかどうかは完全にアメリカ次第であるという状況がアメリカにとって絶好の機会であることを理解した。このことはその後アメリカが紛争を仲介し、またエジプトからソ連の影響を排除することを可能にした。その結果、アメリカはイスラエルに罠にはめたエジプト陸軍に対し攻撃しないよう強い圧力を加えた。電話でイスラエルのシムハ・ディニツ大使と話したキッシンジャーは、大使に対してエジプト第3陸軍を攻撃することは「存在してはならない選択肢」だと語った。エジプトはその後支援の要求を撤回し、ソビエトはこれに応じた。 戦後、キッシンジャーはイスラエルにアラブ領からの撤退を迫り、このことはイスラエルとエジプトにひとときの平和をもたらした。戦時におけるアメリカのイスラエル支援は1973年から1974年までOPECによる石油の禁輸というアメリカへの報復を招いた。
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