レビューの隆盛
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1926年(大正15年)に、大阪松竹歌劇団が『春のおどり』上演の翌年に、宝塚も『春のをどり』を上演する。以後20世紀末まで『春の踊り/をどり/おどり』などとして春先に日本物ショーが上演されることが定番となった。 1927年、岸田辰彌が欧米遊学から帰国。岸田はこの経験を活かして、日本初のレビュー『モン・パリ 〜吾が巴里よ!〜』を日本人の世界旅行記をテーマにして制作する。同年9月1日から上演されて画期的な内容で大ヒットを記録した。主題歌レコードがヒットして、当時としては露出の高い豪華な衣装も話題となった。ラインダンスを初めて演目に取り入れ、16段ながら(現在は26段)大階段も登場した。以後、少女歌劇のレビューに欠かせないものとして定着する。『モン・パリ 〜吾が巴里よ!〜』の成功後に劇団は演出家を積極的に海外へ送った。白井鐵造が帰国後、1930年に制作したのが『パリ・ゼット』である。この作品中に「すみれの花咲く頃」、「おゝ宝塚」が登場し、宝塚歌劇団を代表する楽曲として定着した。レビューの誕生に前後して、男役が登場し人気が集まり始めた。 1931年、『ローズ・パリ』で銀橋登場。 松竹歌劇団の男役・水の江瀧子が断髪して、宝塚少女歌劇団で門田芦子と佐保美代子が1932年の『ブーケ・ダムール』稽古中に髪を短くして、神代錦らが後に続いた。 1933年、星組の新設・専科制度の充実などの改革が行われる。この年上演された『花詩集』は花をテーマとしたレヴューで、1934年に東京宝塚劇場のこけら落としとしても上演された。当時の団員数は約300名と大規模なものになっていた。葦原邦子と小夜福子の二枚目男役コンビが人気を集めた。 1938年10月2日から1939年3月4日にかけて、団長:小林米三、組長:天津乙女、副組長:奈良美也子以下、雲野かよ子、初代糸井しだれ、千村克子、打吹美砂、久美京子ら、1938年9月19日に小林一三から発表された計30名の選抜メンバーと衣裳係、道具係、関係者ら合計56名が『訪独伊芸術使節団』として、豪華客船・靖國丸の第22次往航に神戸港第四突堤から乗船して命令航路を通ってナポリに到着後に、現在のドイツ(ベルリン、ドレスデン、デュッセルドルフ、ミュンヘンなど)・イタリア(ローマ、フィレンツェ、ベニス、ミラノなど)・ポーランド(ワルシャワ、ヴロツワフ(1938年当時はドイツ領ブレスラウ))・クロアチア(リエカ、1938年当時はイタリア領フィウメ)を巡行して劇団史上初の海外公演を行った。復路はドイツで仕立てた制服を着用して選抜メンバーは意気揚々と客船・伏見丸の第68次復航にナポリから乗船して日本に帰朝した。選抜メンバー一行がイタリアのナポリ港に到着した時の様子やドイツのベルリン公演の模様を伝えるニュース映像や、イタリアに向けて航行している往路で、靖國丸の船上で撮影されたモノクロの集合写真などが現存する。1939年5月に宝塚映画によって『日・独・伊親善宝塚振袖使節道中記』の題名で海外公演の模様を記録した短篇ドキュメンタリー映画が製作された。 1939年4月5日から同年7月4日にかけて、団長:吉岡重三郎、組長:小夜福子、副組長:三浦時子以下、春日野八千代、櫻町公子、月宮みつる、佐保美代子、草笛美子、霧野都ら、同年3月5日に、宝塚音楽学校講堂で挙行された訪独伊芸術使節団の帰国歓迎会で小林一三から発表された計40名の選抜メンバーと衣裳係、道具係、関係者ら合計60名が『訪米芸術使節団』として、豪華客船・鎌倉丸の第2次往航に神戸港から乗船してアメリカ合衆国(ホノルル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ポートランドなど)へ出帆して劇団史上2度目の海外公演を行った。復路は豪華客船・氷川丸の第59次復航にシアトルから乗船して日本に帰朝した。氷川丸に乗船中は、船内のすき焼きパーティーや船長主催のパーティーに積極的に参加して、華やかな装いと立ち居振る舞いで他の船客たちを魅了した。選抜メンバー一行が着物姿でロサンゼルス市ハリウッドにあるRKOラヂオ映画社の映画スタジオを見学している様子を撮影したモノクロ写真や、アメリカ公演の模様やニューヨーク観光をしている選抜メンバーの様子などをとらえたモノクロ映像、同年6月21日にカナダのバンクーバーで撮影されたカラー映像が現存している。 1939年以前の詳細については「宝塚音楽学校」を参照
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