ル‐アーブル【Le Havre】
ル・アーヴル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/09 05:40 UTC 版)
Le Havre | |
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行政 | |
国 | ![]() |
地域圏 (Région) | ノルマンディー地域圏 |
県 (département) | セーヌ=マリティーム県 |
郡 (arrondissement) | ル・アーヴル郡 |
小郡 (canton) | 9 |
INSEEコード | 76351 |
郵便番号 | 76600,76610,76620 |
市長(任期) | エドゥアール・フィリップ (2020年 - 2026年) |
自治体間連合 (fr) | fr:Communauté de l'agglomération havraise |
人口動態 | |
人口 | 172 807人 (2014年) |
人口密度 | 3,681人/km2 |
住民の呼称 | Havrais |
地理 | |
座標 | 北緯49度29分 東経0度06分 / 北緯49.49度 東経0.1度座標: 北緯49度29分 東経0度06分 / 北緯49.49度 東経0.1度 |
標高 | 平均:? 最低:0m 最高:105m |
面積 | 市:46.95km2 (4,695ha) |



ル・アーヴル(フランス語: Le Havre)は、フランス北西部の大西洋に臨む港湾に位置する都市。セーヌ川右岸の河口にあたり、ルーアンを首都とするノルマンディー地域圏セーヌ=マリティーム県に属する。港湾の規模はマルセイユに次ぎ、大西洋岸ではフランス第1位の規模である。
対岸のオンフルールとの間には、1995年にノルマンディー橋が架けられた。
2005年、戦後再建された中心部の街並みが「オーギュスト・ペレによって再建された都市ル・アーヴル」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
歴史について
古い港が泥の堆積のため使用できなくなったため、1517年に建市され、当初はフランソワ1世にちなんでフランシスコポリスと命名された。その後まもなく、ル・ポール・ド・グラース(Le Port de Grace)やル・アーヴル・ド・グラース(Le Havre de Grace)などと呼ばれるようになった。アーヴル(Havre、男性名詞)は現代では一般的には使われないが、中期フランス語で港を意味する[1]。つまり、どちらの名称も「グラースの港」を意味したが、これは港の近くにあったノートル=ダム=ド=グラース礼拝堂(la chapelle de Notre-Dame-de-Grâce)にちなんでいる[2]。
第一次世界大戦中の1914年10月13日から1918年11月にかけ、ドイツに国土の大半を占領されたベルギーの政府は、ル・アーヴルの北西近郊のサン=タドレス(Sainte-Adresse)に移転して活動した(第一次世界大戦期のベルギー亡命政府)。
第二次世界大戦中、ノルマンディー上陸作戦から続くアストニア作戦の艦砲射撃と空爆で破壊され、戦後「鉄筋コンクリートの巨匠」とも呼ばれた建築家オーギュスト・ペレによって再建された。
2020年6月に行われた市長選挙では、現職首相のエドゥアール・フィリップが出馬、当選を果たした。制度上、フランスの首相と市長の兼務も可能ではあったが、7月3日には大統領に辞表を提出。市長職に専念することとなった[3]。
名称について
ル・アーヴルのル(le)は、フランス語の男性形定冠詞であり、前置詞と結合することがある。たとえば前置詞àと結合するとau(オ)となるため、ル・アーヴルはオ・アーヴル(au Havre)に変化する。前置詞"de"なら"du"(デュ)で、デュ・アーヴル(du Havre)である。なお、H(アッシュ)が無音であればエリジヨンを起こし「ラーヴル」となるが、この場合"Havre"はゲルマン系の語彙(英語の"haven"と同根)であり有音なので「ルアーヴル」と読む。
姉妹都市
出身者
- ルネ・コティ:第四共和政期の大統領
- クリスティーヌ・ラガルド:欧州中央銀行総裁、IMF専務理事、フランス財務大臣。幼少期を同地で育った。
- アルテュール・オネゲル:作曲家(スイス国籍)
- アンドレ・カプレ:作曲家・指揮者
- クロード・モネ:画家[4]
- ラウル・デュフィ:画家
- ジャン・デュビュッフェ:画家
- ポール・フレール:自動車ジャーナリスト(現・ベルギー国籍)
- ジェロム・レ・バンナ:格闘家
- レーモン・クノー:詩人・作家
- ローラン・リュキエ:司会者
脚注
- ^ Algirdas Julien Greimas & Teresa Mary Keane, Dictionnaire du moyen français, Larousse, 1992 / 2001
- ^ A. Dauzat & Ch. Rostaing, Dictionnaire étymologique des noms de lieux en France , Paris : Larousse, 1963
- ^ “フランスのフィリップ内閣総辞職 大統領府発表”. AFP (2020年7月3日). 2020年7月3日閲覧。
- ^ 中野京子『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ』NHK出版、2011年、13頁。ISBN 978-4-14-088350-1。
関連項目
- ル・アーヴルAC - サッカークラブチーム。
- ル・アーヴル駅
- ふしぎの海のナディア - 主人公の一人であるジャンはこのル・アーヴルの出身。
- The Saboteur - オープンワールドゲーム。マップ内にこの町が登場する。
- 印象・日の出
- フニクレール・デュ・アーヴル - 市内にあるケーブルカー。
外部リンク
ル・アーヴル(少年時代)
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「クロード・モネ」の記事における「ル・アーヴル(少年時代)」の解説
1840年11月14日、パリ9区のラフィット街(英語版)で、父アドルフと母ルイーズとの間の二男として生まれた。父親の職業ははっきり分かっていない。出生時のフルネームは、オスカル=クロード・モネ(Oscar-Claude Monet)であったが、のちに本人はクロード・モネと名乗っている。 1845年ごろ、一家でノルマンディー地方のセーヌ河口の街ル・アーヴルに移住した。ここでは、父の義兄ジャック・ルカードルが富裕な雑貨卸業を営んでいた。モネは、少年時代の大半をル・アーヴルで過ごすことになる。これ以降も、モネは生涯のほとんどをセーヌ川沿いの町で過ごすことになり、のちに自ら「セーヌ。私は生涯この川を描き続けた。あらゆる時刻に、あらゆる季節に、パリから海辺まで、アルジャントゥイユ、ポワシー、ヴェトゥイユ、ジヴェルニー、ルーアン、ル・アーヴル……」と回想している。 1851年4月1日、ル・アーヴルの公立中学校に入学した。モネは、学校を抜け出して外で遊び回るのが好きな少年であった。彼はのちに、次のように回想している。 私は生まれた時からきかん坊であった。誰も、私をどのような規律にも従わせることはできなかった。私が学んだわずかなことは、みな独りで学んだのだ。……外には親しげに太陽が輝き、美しい海が広がっていて、澄んだ空気の中で海辺を走り回ったり、水の中に飛び込んだりできるというのに、4時間もじっと座っていることなど、とても私にはできなかった。 モネは少年のころから絵画に巧みで、10代後半のころには自分の描いた人物のカリカチュア(戯画)を地元の文具店の店先に置いてもらっていた。カリカチュアの注文を頼む者も現れ、最初は10フラン、のちに20フランで引き受けた。デッサン教師ジャック=フランソワ・オシャールの授業も受けている。1857年1月28日、母親が死去した。モネは、同じころ学業を放棄したが、叔母のマリー=ジャンヌ・ルカードルが彼をアトリエに入れ、デッサンの勉強を続けさせた。 1858年ごろ、モネの描いていたカリカチュアが、ル・アーヴルで活動していた風景画家ウジェーヌ・ブーダンの目にとまり、2人は知り合った。ブーダンは、それまでアトリエで制作するのが当たり前だったキャンバスを戸外に持ち出し、陽光の下で海や空の風景を描いていた画家であった。ブーダンから、カリカチュアばかり描くのをやめ、油絵を勉強しようと誘われたことから、モネは油絵に取り組み始め、画家としての一歩を踏み出した。ブーダンとともにル・アーヴル北東のルエル(フランス語版)に赴いて制作し、油絵『ルエルの眺め』をル・アーヴル市展覧会に出品した。 戯画、1855 - 56年ごろ。61.2 × 45.2 cm。シカゴ美術館。 『ルエルの眺め』1858年。油彩、キャンバス。46 × 65 cm。丸沼芸術の森コレクション。
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