ラ・ブラシュ伯爵との泥沼裁判
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「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「ラ・ブラシュ伯爵との泥沼裁判」の解説
1770年は色々な意味でボーマルシェの生涯にとって重要な年となった。先述した夫人との死別もあったし、パーリ=デュヴェルネーが亡くなった年でもあったからだ。デュヴェルネーはボーマルシェと知り合った1670年以来、経済的にも、精神的にも彼に惜しみない援助を与えた大恩人であった。しかし彼も齢86となり、死は確実に近づいていた。ボーマルシェは、その莫大な遺産を巡る問題の発生を未然に防ごうとして、金銭的な問題をきちんと生前に処理しておこうと考えた。この年に入ってからすぐ手紙でやり取りした結果、4月1日付で2通の証書を取り交わした。証書ではボーマルシェとデュヴェルネーの金銭の貸し借りが詳細に列挙され、デュヴェルネーにおよそ14万リーヴルの借金があったボーマルシェは、一度この借金を相殺して、小切手で16万リーヴルをデュヴェルネーに渡して、シノンの森開発計画からの撤退を認めることにした。一方でデュヴェルネーは、ボーマルシェが借金を全額返済したことを認めたうえで、逆に98000リーヴルをボーマルシェに借りているので、そのうちの15000リーヴルは請求があり次第返済し、今後8年に亘って750000リーヴルを無利子で貸し付けることを約束したのであった。 デュヴェルネーには子供がおらず、血縁関係としても甥パーリ・ド・メズィユーと姪の娘ミシェル・ド・ロワシーがいるのみであった。とくにミシェルをかわいがっていたデュヴェルネーは、その夫であるラ・ブラシュ伯爵を相続人に指定した。ボーマルシェがこの措置に不満を抱くのも、当然といえば当然であろう。血縁関係があり、かつ事業の功労者でもあるメズィユーが遺産相続の対象とならず、なぜ血縁関係も何もない赤の他人のラ・ブラシュ伯爵が相続の対象となっているのか常人には理解しがたい。ボーマルシェはメズィユーにも遺産を与えるべきだと手紙で伝えているが、効果はなかったようだ。 一方、棚から牡丹餅とはまさにこのことで、血縁関係もないのに莫大な遺産が転がり込んできたラ・ブラシュ伯爵からすれば、その遺産の持主たるデュヴェルネーと特別な関係にあるボーマルシェが目ざわりになるのも無理のないことであった。ボーマルシェは貴族の肩書を有しているとはいえ、もともとはただの平民、時計職人からの成り上がりであり、自分と対等の人間ではないし、デュヴェルネーの甥であるメズィユーと友人であるから何を仕掛けてくるかわからない、などと考えていたのかもしれない。彼が何を考えていたかは分からないが、彼とボーマルシェのそりが合わなかったのは確実で、ボーマルシェには憎悪ともいえる感情を抱いていたという。ボーマルシェは伯爵のこのような感情を察知していたからこそ、遺産相続に関して手紙で安心して付き合っていけるメズィユーにも遺産を分け与えるように伝えたのである。 1770年7月7日、デュヴェルネーがこの世を去った。それとともに、遺産を巡る闘争が始まった。ラ・ブラシュ伯爵は、ボーマルシェが心配していた通りに、彼とデュヴェルネーが生前に交わした契約を反故にし始めた。契約では「請求あり次第15000リーヴルを返却する」はずであった。そのためボーマルシェは契約に則って、伯爵に15000リーヴルを請求したが、伯爵からの返答は「契約自体の存在と有効性を疑う」という信じがたいものであった。この頃、両者は短期間のうちに何通もの手紙をやり取りしているが、全く噛み合わなかった。埒が明かないので。ボーマルシェは公証人の家に自身の正当性を主張する根拠となる証書を預け、伯爵に検討させた。その検討の結果、伯爵は「証書に書かれているデュヴェルネーの署名は、彼の自筆であるとは認め難いため、証書は本物ではない」と主張し、辣腕弁護士カイヤールを雇って「証書自体に不正が含まれている以上、無効であり、この契約は破棄されるべきである」と裁判所に訴え出たのであった。 伯爵陣営の主張は、極めて悪質で巧妙であった。この訴えにおいてボーマルシェを間接的にペテン師であると攻撃し、証書自体が虚偽であるのだから、ボーマルシェがデュヴェルネーに借金を完済し終えた事実もまた虚偽なのであって、すなわち依然として14万リーヴルの借金は残っており、相続人の伯爵にはその請求権があるという主張を堂々と行ったのである。デュヴェルネーとボーマルシェの間に存在した金銭の貸し借りは否定しないなど、都合よく曲解した末に生み出された主張であった。 この件の裁判は1771年10月に、ルーヴル宮殿内の法廷において始まった。この法廷ではデュヴェルネーとボーマルシェとの間に交わされた証書の真偽が精査され、その結果、翌年になって証書は本物であると結論付けられた。ボーマルシェに有利な裁定が下ったわけだが、伯爵とカイヤールは単に主張を微修正しただけであった。「証書は正しいのかもしれないが、記載されている借金14万リーヴルは実際には返済されておらず、従って15000リーヴルの返済義務など存在せず、逆に14万リーヴルの請求権が発生している」と主張し、同時に根も葉もない不品行のうわさをボーマルシェのこれまでの恥ずべき行いとしてまき散らすことで彼の信用を貶めて、有利に主張を展開できるように試みた。ここでも伯爵たちが巧妙であったのは、まき散らした噂の中に少年時代の勘当という事実を一つだけ混ぜたことにある。「嘘八百かと思っていたら、ひとつだけ真実が混じっていた」なんてことがあったなら、その他の嘘とされていることも実は本当なのではないかと考えてしまうのは、無理もないことであるからだ。 ボーマルシェも、事あるごとに相手方の誹謗中傷に反撃しているが、その中でも特に効果的であったのは「王妃たちから謁見を禁じられた」との中傷に対する反撃である。ボーマルシェはこの中傷に対応するために、早速王姫に付き従う女官であるペリゴール伯爵夫人に手紙を宛て、王姫から「そのような事実はない」との言質を引き出した。それどころか、「いかなる場合においても、ボーマルシェの不利益となるようなことは発言しないつもりである」とのお言葉まで頂戴したのであった。ボーマルシェは快哉を叫んだに違いない。中傷への反撃として、国王家の一員たる王姫の保証以上に心強いものなど存在しないし、裁判官の心証にも大きな影響を与える力があるからである。だが、ボーマルシェは調子に乗りすぎた。誹謗中傷へ反撃する際に、伯爵夫人からの手紙を許可なく引用し、自分にはあたかも王姫が後ろについているかのようなふるまいをしたのである。王姫たちもこの行動を看過出来なかったと見え、即座に連署入りで「自分たちは裁判に無関係であるし、庇護を与えてもいない」との内容の手紙を送付している。 1772年2月22日、第一審の判決が下された。ボーマルシェの勝訴である。この判決ではデュヴェルネーとの間に交わした証書の有効性を認めたが、15000リーヴルの支払い命令は出されなかったため、再度手続きを取って、同年3月14日にこちらでも正式に命令を引き出した。だが、ラ・ブラシュ伯爵も負けてはいなかった。彼はこの法廷を欠席したうえで、高等法院に提訴し、審理中である事実を作って判決を実行できないように企てたのだ。こうして、場所を高等法院へと移した裁判の審理は続いていった。完全な決着がついたのは1778年のことである。この裁判の影響が、『セビリアの理髪師』の第2幕第8景の台詞に見られる。1773年1月3日、『セビリアの理髪師』がコメディー・フランセーズに上演候補作品として受理された。
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