ラ・ブラシュ伯爵との泥沼裁判とは? わかりやすく解説

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ラ・ブラシュ伯爵との泥沼裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 09:29 UTC 版)

カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「ラ・ブラシュ伯爵との泥沼裁判」の解説

1770年色々な意味でボーマルシェ生涯にとって重要な年となった先述した夫人との死別もあったし、パーリ=デュヴェルネーが亡くなった年でもあったからだ。デュヴェルネーはボーマルシェ知り合った1670年以来経済的にも、精神的に彼に惜しみない援助与えた大恩であった。しかし彼も齢86となり、死は確実に近づいていた。ボーマルシェは、その莫大な遺産を巡る問題の発生未然防ごうとして、金銭的な問題をきちんと生前処理しておこうと考えたこの年入ってからすぐ手紙やり取りした結果4月1日付で2通の証書取り交わした証書ではボーマルシェとデュヴェルネーの金銭貸し借り詳細に列挙され、デュヴェルネーにおよそ14リーヴル借金があったボーマルシェは、一度この借金相殺して小切手16リーヴルをデュヴェルネーに渡してシノン開発計画からの撤退認めることにした。一方でデュヴェルネーは、ボーマルシェ借金全額返済したことを認めたうえで、逆に98000リーヴルボーマルシェ借りているので、そのうちの15000リーヴル請求があり次第返済し今後8年亘って750000リーヴル無利子貸し付けることを約束したであった。 デュヴェルネーには子供がおらず、血縁関係としても甥パーリ・ド・メズィユーと姪の娘ミシェル・ド・ロワシーがいるのみであった。とくにミシェルかわいがっていたデュヴェルネーは、その夫であるラ・ブラシュ伯爵相続人指定したボーマルシェがこの措置に不満を抱くのも、当然といえば当然であろう血縁関係あり、か事業功労者でもあるメズィユーが遺産相続対象とならず、なぜ血縁関係何もない赤の他人のラ・ブラシュ伯爵相続対象となっているのか常人には理解しがたいボーマルシェはメズィユーにも遺産与えるべきだと手紙伝えているが、効果はなかったようだ一方棚から牡丹餅とはまさにこのことで、血縁関係もないのに莫大な遺産転がり込んできたラ・ブラシュ伯爵からすればその遺産持主たるデュヴェルネーと特別な関係にあるボーマルシェ目ざわりになるのも無理のないことであったボーマルシェ貴族肩書有しているとはいえ、もともとはただの平民時計職人からの成り上がりであり、自分と対等人間ではないし、デュヴェルネーの甥であるメズィユーと友人であるから何を仕掛けてくるかわからない、などと考えていたのかもしれない。彼が何を考えていたかは分からないが、彼とボーマルシェのそりが合わなかったのは確実で、ボーマルシェには憎悪ともいえる感情抱いていたという。ボーマルシェ伯爵このような感情察知していたからこそ遺産相続に関して手紙安心して付き合っていけるメズィユーにも遺産分け与えるように伝えたのである1770年7月7日、デュヴェルネーがこの世去った。それとともに遺産を巡る闘争始まった。ラ・ブラシュ伯爵は、ボーマルシェが心配していた通りに、彼とデュヴェルネーが生前交わした契約反故にし始めた契約では「請求あり次第15000リーヴル返却する」はずであった。そのためボーマルシェ契約則って伯爵に15000リーヴル請求したが、伯爵からの返答は「契約自体存在有効性を疑う」という信じがたいものであったこの頃両者短期間のうちに何通もの手紙をやり取りしているが、全く噛み合わなかった。埒が明かないので。ボーマルシェ公証人の家に自身正当性主張する根拠となる証書預け伯爵検討させた。その検討結果伯爵は「証書書かれているデュヴェルネーの署名は、彼の自筆であるとは認め難いため、証書本物ではない」と主張し辣腕弁護士カイヤールを雇って証書自体に不正が含まれている以上、無効であり、この契約破棄されるべきである」と裁判所訴え出たであった伯爵陣営主張は、極めて悪質巧妙であった。この訴えにおいてボーマルシェ間接的にペテン師であると攻撃し証書自体虚偽であるのだから、ボーマルシェがデュヴェルネーに借金完済し終えた事実もまた虚偽なのであって、すなわち依然として14リーヴル借金残っており、相続人伯爵にはその請求権があるという主張堂々と行ったのである。デュヴェルネーとボーマルシェの間に存在した金銭貸し借り否定しないなど、都合よく曲解した末に生み出され主張であった。 この件の裁判1771年10月に、ルーヴル宮殿内の法廷において始まった。この法廷ではデュヴェルネーとボーマルシェとの間に交わされ証書真偽精査され、その結果翌年になって証書本物であると結論付けられた。ボーマルシェ有利な裁定下ったわけだが、伯爵とカイヤールは単に主張を微修正しただけであった。「証書正しいのかもしれないが、記載されている借金14リーヴル実際に返済されておらず、従って15000リーヴル返済義務など存在せず逆に14リーヴル請求権発生している」と主張し同時に根も葉もない不品行のうわさをボーマルシェこれまでの恥ずべき行いとしてまき散らすことで彼の信用貶めて、有利に主張展開できるように試みた。ここでも伯爵たちが巧妙であったのは、まき散らした噂の中に少年時代勘当という事実を一つだけ混ぜたことにある。「嘘八百かと思っていたら、ひとつだけ真実混じっていた」なんてことがあったなら、その他の嘘とされていることも実は本当なではないか考えてしまうのは、無理もないことであるからだ。 ボーマルシェも、事あるごとに相手方誹謗中傷反撃しているが、その中でも特に効果的であったのは「王妃たちから謁見禁じられた」との中傷対す反撃である。ボーマルシェこの中傷に対応するために、早速王姫に付き従う女官であるペリゴール伯爵夫人手紙宛て、王姫から「そのような事実はない」との言質引き出したそれどころか、「いかなる場合においても、ボーマルシェ不利益となるようなことは発言しないつもりである」とのお言葉まで頂戴したであったボーマルシェ快哉叫んだ違いない中傷への反撃として、国王家の一員たる王姫の保証以上に心強いものなど存在しないし、裁判官心証にも大きな影響与える力があるからである。だが、ボーマルシェ調子に乗りすぎた。誹謗中傷反撃する際に、伯爵夫人からの手紙を許可なく引用し自分にはあたかも王姫が後ろついているのようなふるまいをしたのである。王姫たちもこの行動看過出来なかったと見え即座に連署入りで「自分たちは裁判無関係であるし、庇護与えてもいない」との内容の手紙を送付している。 1772年2月22日第一審判決下されたボーマルシェ勝訴である。この判決ではデュヴェルネーとの間に交わした証書有効性認めたが、15000リーヴル支払い命令出されなかったため、再度手続き取って同年3月14日にこちらでも正式に命令引き出した。だが、ラ・ブラシュ伯爵負けてはいなかった。彼はこの法廷欠席したうえで、高等法院提訴し審理中である事実作って判決実行できないように企てたのだ。こうして、場所を高等法院へと移した裁判審理続いていった。完全な決着がついたのは1778年のことである。この裁判の影響が、『セビリアの理髪師』の第2幕第8景の台詞見られる1773年1月3日、『セビリアの理髪師』がコメディー・フランセーズ上演候補作品として受理された。

※この「ラ・ブラシュ伯爵との泥沼裁判」の解説は、「カロン・ド・ボーマルシェ」の解説の一部です。
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