ラ・ブラシュ伯爵との決着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 09:29 UTC 版)
「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「ラ・ブラシュ伯爵との決着」の解説
1770年代後半になっても、ラ・ブラシュ伯爵との裁判は続いていた。ボーマルシェの多忙を知った伯爵は、判決が下される予定地であるエクス=アン=プロヴァンスに腰を据えて、自分に有利な判決が出る様に工作活動を進めていた。誹謗中傷文書のばらまきに勤しんだほか、朝早くから判事を訪れて自身の主張を訴えたほか、6人の弁護士を雇って準備を重ねるなど、その活動は抜かりのないものであった。 ロドリーグ・オルタレス商会の仕事でマルセイユを訪れたボーマルシェは、伯爵の上記のような活動を知り、反論文書を書き上げてエクス=アン=プロヴァンスで出版した。この文書は同地の住民たちに大受けしたようで、彼の人気は一気に高まった。予期せぬ反撃に伯爵は慌て、反論文書を発表した上で、ボーマルシェの文書の差し止めと焼却を求める請願書を裁判所に提出した。これにボーマルシェが再反論を加えるなど、泥仕合の様相を呈する論争で盛り上がる市民たちを尻目に、エクス=アン=プロヴァンスの裁判官たちは慎重にこの件に関する調査を行っていた。ボーマルシェは、すべての判事が同席する上で伯爵とともに陳述させる機会を与える様に裁判所に請願し、認められた。この2人はともに雄弁家であったから、大いに街の人々の関心を惹きつけたらしい。59回に及ぶ審理の結果、1778年7月12日、エクス=アン=プロヴァンスの再審法廷は、裁判官全員一致でボーマルシェの勝訴という判決を下した。伯爵の主張は悉く退けられただけでなく、根拠のない誹謗中傷と断じられ、ボーマルシェの本来の権利であった15000リーヴルに加えて、この裁判に要した費用はすべて伯爵が支払うことになったのである。 この判決に、町中が沸き返った。長年の苦しみから解放されたボーマルシェは、涙を浮かべ、喜びのあまりに気を失ったという。伯爵もさすがに根負けしたようで、判決に素直に従ったようだ。こうして、10年近くに亘るラ・ブラシュ伯爵との闘争は幕を閉じたのである。
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