ラディカルな展開
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大恐慌とヨーロッパでのファシズムの脅威の高まりに対する意識から、ラディカルなダンサーたちは同時代の経済的、社会的、民族的、政治的危機を劇的に表現することにより警鐘を鳴らした。 ハンヤ・ホルム(英語版)はマリー・ヴィグマンの生徒で、ドレスデンのヴィグマン学校の教師。1931年にニューヨーク・ヴィグマン学校を設立し(1936年にハンヤ・ホルム・スタジオとなった)、ヴィグマン・テクニック、ラバンの空間ダイナミクスの理論、そして後には彼女独自のダンス・テクニックをアメリカのモダンダンスに持ち込んだ。熟練した振付家であり、ベニントンでの最初のアメリカン・ダンス・フェスティバル(英語版)(1934年)の創設アーティストだった。ホルムのダンス作品 Metropolitan Daily はNBCで放映された最初のモダンダンス作品であり、『キス・ミー・ケイト』(1948年)のラバノテーション(英語版)・スコアはアメリカで初めて振付に著作権が認められた事例である。ホルムは劇場舞踊(英語版)やミュージカルの分野で幅広く振付を行った。 アンナ・ソコロウ(英語版)はマーサ・グレアムとルイス・ホースト(英語版)の生徒であり、1930年頃に自らの舞踊団を設立した。劇的な同時代的イメージを提示するソコロウの作品は概して抽象的で、時間の緊張と疎外、人間の動きに宿る真理を映し出しながら、人間の経験のあらゆる側面を露わにする。 ホセ・リモンはドリス・ハンフリーとチャールズ・ワイドマンに師事した後、1946年に自身の舞踊団を設立し、ハンフリーを芸術監督として迎えた。ハンフリーの指導の下、リモンは代表作 The Moor’s Pavane(1949年)を生み出した。その振付作品とテクニックは、コンテンポラリーダンスに強い影響を及ぼし続けている。 マース・カニンガムはマーサ・グレアムのもとで活動し、バレエを学んだ後、1944年にジョン・ケージとの初めてのソロ公演をニューヨークで行った。ケージの影響を受け、ポストモダン的なプロセスを用いつつモダニズムの考え方を取り入れたカニンガムは、偶然性に基づく手続きと純粋に形式的な身体運動を振付に持ち込むと同時に、そのカニンガム・テクニックは20世紀のダンス・テクニックの規範の一つとなった。カニンガムはその非線形的、非クライマックス的、非心理的な抽象作品によってポストモダンダンスの種をまいた。これらの作品においては、一つ一つの構成要素がそれ自体として表現性を持つとともに、それらが何を伝えて来るかは観客自身が(おおむね)決定する。 エリック・ホーキンスは、ジョージ・バランシンに師事した後、マーサ・グレアムの舞踊団で初の男性ダンサー、およびソリストとなった。1951年、新しいキネシオロジーの分野に興味を持っていたホーキンスは自身の学校を設立し、独自のテクニック(ホーキンス・テクニック)を発展させ、ソマティックなダンス・テクニックの先駆となった。 ポール・テイラー (振り付け師)(英語版)は、ジュリアード音楽院およびコネチカット大学舞踊学部で学んだ。1952年、アメリカン・ダンス・フェスティヴァルに出演した際に重要な振付家たちから注目を集めた。まずマース・カニンガムの舞踊団、次いでマーサ・グレアム、さらにジョージ・バランシンの舞踊団を経て、1954年にポール・テイラー・ダンス・カンパニー(英語版)を設立。日常動作とモダニズム的な発想の共存が振付の特徴である。トワイラ・サープ、ローラ・ディーン、ダン・ワゴナー、およびセンタ・ドライヴァーが在籍していた。 アルウィン・ニコライ(英語版)はハンヤ・ホルムに師事した。Masks, Props, and Mobiles(1953年)、Totem(1960年)、Count Down(1979年)などに代表される、そのマルチメディア的な表現は他に類を見ない。多くの場合、空間や衣装の面でダンサーの自由度を制限し、複雑な音響と舞台装置とともに上演する作風であり、そうした障害を克服するという物理的な課題にダンサーの意識を向けさせた。ニコライはダンサーを自己表現する芸術家としてではなく、物理的な空間と動きの特性を探求する存在と捉えていた。
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