冷戦起源論を巡る論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 03:08 UTC 版)
冷戦史研究では様々な争点が存在したが、特に大きな争点を形成したのは、「冷戦はいつ、なぜ生じたのか」という冷戦の起源を巡る論争だった。この論争は、西側陣営最大の当事国である米国の学界を中心として活発になされることとなった。 冷戦起源論争は二つの特徴を有していたといえる。第一に、冷戦起源論争は第二次世界大戦などの起源を巡る学術論争と異なり、それが同時代的に継続している状況の起源を論じるものであったため、ベトナム戦争を典型として、研究が発表された当時の出来事や問題関心に強く影響されたものになった。第二に、その論争が米国学界を中心に展開されたことや、資料公開ペースのスピードなどから、特に米国に分析の重点を置いたものとなった点である。そして、一般に研究学派は伝統学派/正統学派、修正主義学派、ポスト修正主義学派に大別されている。 伝統学派/正統学派 (Traditionalist / Orthodox) は1950年代から60年代にかけて研究を発表した学派であり、この学派に分類される研究者の議論は冷戦の起源をソ連の拡張的・侵略的な行動に求めるという特徴を有していた。伝統学派はソ連がヤルタ会談で合意されたポーランド自由選挙を実施しなかったこと、東欧各国に対して共産党政権を樹立する動きを示したことなどの一連の行動が西側に警戒感を生み出し、マーシャル・プラン、NATO結成などの西側陣営強化はこれに対する防御的な行動としてなされたとする解釈を示した。 以上のような解釈はノーマン・グレーブナー (Norman A. Graebner) のCold War Diplomacy (1962)、ルイス・ハレー (Louis J. Halle) の『歴史としての冷戦』(1967)、ハーバート・ファイスのFrom Trust to Terror (1970) などに代表されるものであったが、これはトルーマン政権の国務長官を務め、冷戦政策を展開したディーン・アチソンの回顧録の記述とも重なるものだった。その意味で伝統学派は、戦後米国の外交政策を擁護するニュアンスも帯びていたと評されている。 続いて1960年代より登場した修正主義学派 (Revisionist) は、伝統学派の解釈と真っ向から対立し、冷戦の発生はソ連の行動よりも米国側の行動により大きな原因があったとする解釈を提示した。修正主義学派の最大の特徴は、経済的要因を重視する点にあった。1958年に『アメリカ外交の悲劇』を発表し、後に自らの勤務したウィスコンシン大学マディソン校で「ウィスコンシン学派」といわれる後進たちを育成したことで知られるウィリアム・A・ウィリアムズは、同書で建国以来米国指導者層が海外に市場を求める必要があるという「門戸開放」イデオロギーを奉じていたことに最大の原因があったとする主張を展開した。ウィリアムズは、第二次世界大戦で大きな被害を受けたソ連が伝統学派の考えるような脅威ではなかったと指摘した。そして、冷戦は米国が門戸開放イデオロギーのもと東欧地域の市場開放を執拗に要求し、ソ連に対して非妥協的態度を貫いたこと、これにソ連が反発したことによってもたらされたものであったとして、米国により大きな責任があったとする解釈を示した。ウィリアムズのテーゼは、彼が育成した外交史家である ウォルター・ラフィーバーの America, Russia, and the Cold War (1967)、ロイド・ガードナーの Architects of Illusion (1970) などによってより精緻に検討されることとなる。 また、修正主義学派の研究はウィリアムズの研究にとどまらず、よりラディカルな展開も示した。ガブリエル・コルコとジョイス・コルコ (Joyce Kolko) は、The Limits of Power (1972) において、米国の対外政策のすべては資本主義体制の防衛を目的としており、世界規模で革命運動を弾圧するものであったとするマルクス主義に親和的な解釈を主張することとなった。これらの研究は、ベトナム戦争の泥沼化により、従来の米国外交のあり方に対する不信が強まっていた60年代の時代状況下で、強い支持を受けることになった。当然ながらこれらの主張は、伝統学派からの反発と論争を巻き起こすこととなる。伝統学派からは修正主義学派の分析の実証性の乏しさ、経済要因の過大評価、米国の行動のみを実質的に分析している分析の偏重などが批判されることとなった。うい 伝統学派・修正主義学派に続くポスト修正主義学派 (Post-Revisionist) は、先行する学派の議論の抱える問題点を克服し、さらにこの頃徐々に公開が進んだ西側政府の公文書を活用することで、歴史研究としての実証性を増す形で議論を展開することとなった。その先駆的著作とされているのが、ジョン・ルイス・ギャディスの The United States and the Origins of the Cold War (1972) である。ギャディスは一次資料に依拠した上で、正統学派の重視する安全保障要因、修正主義学派の重視する経済要因を同時に取り入れつつ、さらに国際政治構造、国内政治要因、政策決定プロセス(官僚政治)の影響などを盛り込んだ分析を提示した。 ギャディスは、各国の疲弊によって「力の真空」が生じていたヨーロッパにおいて、米ソ両国が対峙するという状況下が生まれたこと、対峙の緊張の中で米ソが様々な要因から相手の行動・思惑に対する誤解を重ねたことが(本来両者の想定しなかった)冷戦を生んだとする解釈を示し、米ソいずれかの行動に冷戦発生の責任を求める過去の議論を排する主張を展開した。ギャディスによるこのような新しい解釈は、ブルース・クニホルム (Bruce Kuniholm) のThe Origins of the Cold War in the Near East (1980)、ウィリアム・トーブマンの Stalin's American Policy (1982) などにも継承され、彼らの研究は「ポスト修正主義学派」として広く受け入れられることとなった。また、米国で進んだポスト修正主義学派の研究に対して、ヨーロッパにおける研究も呼応する動きを示した。ノルウェーのゲア・ルンデスタッドは、大戦後のヨーロッパの政治指導者たちがソ連の影響力を相殺するべく、ヨーロッパで米国がより積極的な役割を果たすことを希望していたと論じ、戦後の米国はいわばヨーロッパに「招かれた帝国 (Empire by Invitation)」であったとする解釈を示した。
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