初めてのソロ公演
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「ティナ・ターナー」の記事における「初めてのソロ公演」の解説
1977年、ユナイテッド・アーティスツの役員リチャード・ステュワートから資金を援助されて、ティナはコンサートを再開した。ラスヴェガスのキャバレーを巡る方法を採用したのだが、かつてアイクと一緒にコンビを組んでいた時に試したやり方だった。ティナはアメリカ国内の小さなキャバレーを会場として選んだ。また、「ハリウッド・スクエアズ」、「ドニー・アンド・マリー」、「ザ・ソニー・アンド・シェール・ショウ」、「ブラディ・バンチ・アウア」といった番組に出演することで収入を増やすことにつとめた。1977年も後半になって、ティナの初めてのソロ・コンサート・ツアーをオーストラリアで行った。1978年、ユナイテッド・アーティストからティナの三枚目のソロ・アルバムが発売された。「ラフ(Rough)」と名付けられたそのアルバムは、北米とヨーロッパにはEMIによって配給されることが決まった。しかしこのアルバムは、続いて発売された四枚目の「ラヴ・エクスプロージョン(Love Explosion)」とともに、ディスコ・リズムを採り入れて新たな方向性を示す曲が収録されていたりしたのだが、結局チャート入りすることはなかった。 この二枚のアルバムでユナイテッド・アーティスト/EMIとの契約は終了し、契約が更新されることのないまま、このレコード会社との縁はなくなった。ティナは、二度目のソロ公演の宣伝を行い「ロックンロールのワイルドなレディ」と銘打ってライヴ活動を続けることになった。そしてヒットレコードが出るという見込みがないまま、ライヴは成功を収め続けた。1979年、オリヴィア・ニュートン・ジョンのアメリカでの特別番組である「ハリウッドの夜」に出演したのが契機となり、ティナはニュートン・ジョンのマネージャーだったロジャー・デイヴィスに自分とも契約してくれないかと申し出た。1980年2月に、フェアモント・サンフランシスコ・ホテルのヴェネイティアン・ボールルームでのソロ公演を観たデイヴィスは、自分がマネージャーとしてターナーと一緒に働くことを決心したのである。 デイヴィスはターナーに、「今のバンドはここで解散して、もっと時代に合ったロックンロールバンドを組んで、ショーの内容を見直したほうがよい」とアドバイスした。1981年、デイヴィスはティナにニューヨークのリッツでの公演の話を取ってきた。この公演の後、ロッド・ステュワートがターナーを雇い入れ、「サタデイ・ナイト・ライヴ」で彼のヒット曲である「ホット・レッグズ」のデュエットヴァージョンを歌うことになった。さらには、ステュワートの全米ツアーの前座を務めることに決定したのである。その後、ローリング・ストーンズの前座を三度務めた。1982年には、ロバート・クレイをフィーチャーしたイギリスのバンドB.E.F.の、テンプテーションズのカヴァー曲である「ボール・オヴ・コンフュージョン」がヨーロッパのダンスクラブでヒットとなった。ターナーは、チャック・ベリーとの共演に続いてイギリスとヨーロッパでの短期間のツアーを行った後、再び1982年12月にリッツでライヴを行った。その結果、デヴィッド・ボウイの後押しもあって、キャピトル・レコードとの間でシングルを発売する契約を結ぶことになったのである。
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