初めてのアリゾナ入り
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「ジョゼフィーン・アープ」の記事における「初めてのアリゾナ入り」の解説
ケーソンの原稿は一部、書籍『I Married Wyatt Earp』の基礎であるが、原稿のなかでジョセフィーンは、ポーリーン・マークハム・シアター・カンパニー(Pauline Markham Theater Company)が西部ツアーでサンフランシスコを訪れたとき、1879年に自分と友人ドーラはそこに加わった、と言っている。マーカムは、すでに、バーレスク・ダンサー兼女性歌手として国民的な名声を得た。彼女はしばしば、ステージに、そして広告写真に、コルセットとピンク色のタイツを着て姿を現わした:1870年にしてはショッキングな衣装衣服。ジョセフィーンは、ドーラは歌手として雇われた、と書いたし、彼女はダンサーとして雇われた。ジョシーは、ポーリーン・マークハム一行のうち2人がサンフランシスコからサンタバーバラまで一行のうち他の6人とともに航行した、と言ったが、サンタバーバラで彼らは数日間、滞在し、サンタバーバラで公演し、それからアリゾナ準州プレスコットに向けて乗合馬車で発った。 ジョセフィーンは、娘らは、1週間の契約で1879年12月1日にトゥームストーンに一行といっしょに到着した、と言った。同じ日に、ワイアット・アープとその兄弟らが到着した。トゥームストーンでの1週間ののち、マークハムの劇団は契約を終え、北のプレスコットに向かった。彼らは、1879年12月24日から1880年2月20日まで、12回超にわたって、『軍艦ピナフォア』(H.M.S. Pinafore)を演じた。ジョセフィーンは、マークハムの劇団がプレスコットでの初公演を終えた直後、自分は1880年2月に劇団を去った、と言った。 作家ロジャー・レー(Roger Ray)は、劇団に加わったことのジョセフィーンの話を調査し、多くの矛盾を見つけた。マークハム一行は、1879年10月に船でも乗合馬車でもなく、サザン・パシフィック鉄道の乗り込み、サンフランシスコを発ち終点のアリゾナ州カサ・グランデ(Casa Grande)に向かった。ジョセフィーンとサディー・マーカスの名前は、1879年のマークハムの一行の名簿には決して含まれていなかった。ユマの『Arizona Sentinel』は1879年10月25日に、「火曜日 『ピナフォア』ツーソンに到着 ミス・ポーリン・マークハム、ミス・マリー・ベル、ミス・ベル・ハワード、ミセス・プリング、ミスタ・ボラベック、ミスタ・マクマホン」("Tuesday arrived a Pinafore Company for Tucson, composed of Misses Pauline Markham, Mary Bell, Belle Howard, and Mrs. Pring, and Messrs. Borabeck and McMahon")と報じた:43。一行は、ユマから、プレスコットではなくツーソンまで、乗合馬車に乗った。レーは、ジョセフィーンにはドーラ・ヒルシュ(Dora Hirsch)という名前の友人はいなかった、と言っている。彼女の実名はリー・ヒルシュバーグ(Leah Hirschberg)であったし、母親は音楽教師であった。この一家は、ジョセフィーンが家族と暮らした場所から数ブロックのところに暮らしていた。しかしリーは、ジョセフィーンといっしょにサンフランシスコをけっして発たなかった。彼女は、1870年代にサンフランシスコのステージで子役女優として短い成功をおさめた。 教授パット・リャン(Pat Ryan)は、ジョセフィーンあるいはサディーは、マークハムの劇団の団員としてメー・ベル(May Bell)を使用したかもしれない、と述べた:62。1879年10月21日に『Los Angeles Herald』は、メー・ベルはマークハムの劇団員のなかにいる、と報じた。しかし、ジョセフィーンがメー・ベルをステージ・ネームとして使用したという補強の裏付ける証拠がほかに見つかっていないし、彼女はけっしてそのように主張しなかった。
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