初の黒人ヘッドコーチとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 14:55 UTC 版)
「ビル・ラッセル」の記事における「初の黒人ヘッドコーチとして」の解説
セルティックスを伝説的な八連覇、9度の優勝に導いたレッド・アワーバックは、1965-66シーズンの優勝を最後に兼任していたゼネラルマネージャーに専念するため、ヘッドコーチから勇退した。アワーバックは後任としてまず考えたのがフランク・ラムジーだったが、彼は経営する3つの福祉施設経営に忙しかったため、これを辞退した。アワーバックは次にボブ・クージーにヘッドコーチ就任を打診したが、クージーも元チームメイトたちを指導したくないことを理由に断り、そして3人目の候補者、トム・ヘインソーンはラッセルの扱い難さを理由にやはりヘッドコーチ就任を断った。しかしヘインソーンはアワーバックに対してある貴重な助言を与えた。それは、ラッセル自身をそのままヘッドコーチにしてみてはどうか、という提案だった。そのことをアワーバックはラッセルに伝えてみたところ、ラッセルの答えは「Yes」だった。こうしてアメリカプロスポーツ史上初の黒人ヘッドコーチが誕生したのである。未だ人種差別が当たり前のように横行する時代、当然のように周囲は黒人のラッセルにヘッドコーチが務まるか疑問視したが、ラッセルは周囲の疑問に「私は黒人だからという理由でこの職を与えられたのではない。レッドが私が出来ると計算したから、この職を与えたのだ」と答えた。 周囲の不安は杞憂に過ぎなかった。ラッセル体制となった1年目の1966-67シーズン、セルティックスは八連覇時代と何ら変わらぬ成績の60勝21敗をあげた。ゼネラルマネージャーのアワーバックもベイリー・ハウエルを新戦力としてセルティックスの戦列に並べ、ラッセルの援護をし、選手としてのラッセルはハウエル加入によりオフェンス面での負担が軽減されたため、得点アベレージはキャリア最低となる13.3得点となったが、リバウンドでは平均21.0本を記録し、大黒柱としての役割を果たした。 好調なシーズンを送ったセルティックスだが、セルティックス以上に絶好調のシーズンを送ったのが、ラッセルのライバル、ウィルト・チェンバレンが所属するフィラデルフィア・76ersである。76ersは新たにアレックス・ハナムをヘッドコーチに招聘、チーム改革に成功し、当時の歴代最高勝率となる68勝をあげていた。セルティックスはプレーオフ・デビジョン準決勝でウィリス・リード、ウォルト・ベラミー擁するニューヨーク・ニックスを3勝1敗で破ると、デビジョン決勝で76ersと対決。過去の対決では尽く勝利をあげてきたセルティックスも、この年の76ersにはかなわず、1勝4敗で破れ、ついに8年間続いた連覇が途絶えた。セルティックスが王座を明け渡すのは9年ぶりのことであり、さらにファイナル進出を逃したのは実に11年ぶりのことだった。またラッセルにとってもNBA入り以来ファイナル進出を逃したのは初めての経験だった。敗戦の将となったラッセルは、第5戦の試合後76ersのロッカールームを訪れ、彼の終生のライバルであり、そして親友でもあったチェンバレンの手を取り、「Great!」と、ただそれのみを祝福の言葉として奉げた。 選手兼コーチとしては悔しいシーズンの幕切れとなったが、試合終了後にはささやかで、かつ重要な幸福の場面が待っていた。第5戦を終えたセルティックスのロッカールームに、この日観戦に来ていたラッセルの祖父が訪れた。その祖父の目に、信じられない光景が飛び込んだ。白人のジョン・ハブリチェックと、黒人のサム・ジョーンズが、隣同士でシャワーを浴びながら、今日の試合について活発かつ対等に議論していたのである。祖父はまるで取り乱したようにその場で泣き崩れた。そして「何か悪いことでもあったのか?」と尋ねる孫に、お前が黒人と白人が調和する組織のコーチであることをどれほど誇りに思うか、と答えた。
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