モルドバ語とルーマニア語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 18:57 UTC 版)
「モルドバ」の記事における「モルドバ語とルーマニア語」の解説
モルドバ語(Moldovan)は比較的近年になってから政治的意図によりルーマニア語から区別されたものであり、多少発音や表現に差異があるが、相互理解に不自由はほとんどない(詳しくは「モルドバ語」参照)。 同国の独立運動は、モスクワでの8月革命に先駆けて、モルドバ共和国の公用語をルーマニア語に戻す運動から発端している。過去の歴史において異文化による占領を多く経験してきた同国にとって、自らのアイデンティティーを確立する要素は非常に少なかった。長い間、ソビエト連邦によるルーマニア文化排斥政策が行われた。言語転換もその一つであり、元来、ラテン文字表記であるものをキリル文字標記にさせ、「モルドバ語」という言葉を人為的に作り、ルーマニアとの隔離政策を行ったのである。しかしながら、くしくも日常的に使用する言葉が呼び名は変わろうともルーマニア語に他ならないことが、自らのルーツがルーマニア民族であるという主張を裏付ける説得要因であったがために、必然的にソビエトからの独立を突き動かす原動力となっていったのではないかという見解が存在する。1980年代後半には当時の歴史学者、作家他知識人達が主導して言語奪回運動を組織し、当時モルドバ・ソビエト議会議長だったミルチャ・スネグルを巻き込み、公用語をルーマニア語と宣言した。だが、後に作成された憲法では、1条13項において、モルドバ共和国の公用語はモルドバ語であり、その表記にはラテン文字を使うことが記された。しかし2013年にはモルドバの憲法裁判所(英語版)により、公用語は「ルーマニア語」と規定された。 8月31日は「国語の日」(Limba Noastră)と呼ばれる祝日で、1989年の同日に公用語をルーマニア語にし、キリル文字表記から元々のラテン文字表記に変更されたことを毎年祝賀している。首都キシナウには、これにちなんだ「8月31日通り」が存在する。 モルドバ共和国共産党党首のウラディミール・ボロニンが大統領の時代、この国語の日の存続が危ぶまれた。2006年に、共産党政権は、17年間にわたって伝統的に国語の日が祝賀されていた広場においての公式イベントの実施を禁止し、翌年2007年には国語の日を廃止する計画が立てられている、という噂が流れた。モルドバの独立とモルドバ語の再獲得とを切り離せない同国において、この共産党の政策は歴史の逆行と同等であり、初代大統領スネグルを含め、様々な懸念が各所から噴出している。 2006年3月に、ロシアがモルドバのワインに対して禁輸政策を打ち出し経済制裁を敷いたが、発端はモルドバ側が、ルーマニア語学校を閉鎖した沿ドニエストル地方に対する経済封鎖を科したからだった。この交渉の際に禁輸政策他経済制裁を解く対価として、ロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンがモルドバ国内におけるロシア語の擁護をボロニン大統領に要請したが、モルドバ側は頑なに拒否した。 モルドバ共和国共産党政権時代、ルーマニア歴史過程をロシア寄りの歴史解釈を教える統一歴史過程に置き変える政策を打ち出して、学校におけるロシア語教科のウェイトを増やした他、ルーマニア語・フランス語学校などモルドバ内に住む他言語住民の学校名をモルドバ語・フランス語学校に変えるなどといった政策を展開させ、議論のみならず多数住民との間の対立を深めている。その後統一歴史教科書は出版されたものの現場には受け入れられず実際には使用されなかった。しかし2009年の総選挙で欧州統合同盟(ルーマニア語版)が勝利して政権交代が起こったこともあってか、2013年には再びルーマニア語が「公用語」とされるようになった。 モルドバ人にとってルーマニア語は誇りであるとされ、その響きの美しさが他言語を話す者をも魅了すると自負することが多い。例えば、モルドバの有名な音楽グループであるO-Zoneも『Nu Ma Las De Limba Noastră (僕らの言葉は渡さない)』という歌を歌っている。
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