モルドバ共和国大統領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 05:43 UTC 版)
「ミルチャ・スネグル」の記事における「モルドバ共和国大統領」の解説
1990年、対抗馬のいない大統領選挙において、ソビエト社会主義共和国・モルドバ(1991年5月23日からモルドバ共和国)大統領に選出され、9月3日に就任した。 「1990年モルダビア最高会議選挙(英語版)」も参照 元共産党員であるスネグルはモルドバの独立を保証し、積極的に西側からの承認を求めた。モルドバは1991年6月に一度ソ連からの独立を宣言したが、スネグルがルーマニアとの即時再統一に反対した事が10月のモルダビア人民戦線(ルーマニア語版、英語版)(Frontul Popular)との決裂に発展。その結果、彼は無所属として1991年12月に大統領選挙に出馬することになった。 対抗馬はおらず、人民戦線側による投票ボイコット運動が失敗に終わりスネグルが大統領に当選。そこから同国はソ連崩壊後、共産主義・社会主義から離脱し資本主義に基づいた共和国の一国として完全独立を果たした。 「モルドバの独立(英語版)」および「モルドバ共和国独立宣言(英語版)」も参照 だが、過去の経緯にもかかわらずスネグル自身は言語政策などで親ルーマニア的だったため、モルドバの独立の際にスラブ系の多い沿ドニエストル地方がモルドバからの分離独立を宣言、それに対してモルドバ側は1991年9月3日に共和国軍を創設、沿ドニエストルへ軍隊を派遣して攻撃を開始。これにより同国は多数の死傷者を出す武力紛争へ突入し、この事案が以後の経済的な衰退や混沌へ繋がって行くこととなる。 「トランスニストリア戦争」も参照 大統領在任時、短期間でモルドバの独立承認を130カ国以上から取り付け、国際連合や40以上の国際機構に加盟した。しかしながら同国の経済情勢は急激に悪化し、同時期に国民から国外移民が増加し、教育水準も低下した。 1995年8月にモルドバ復興と合意党(英語版)を結成して議長に就任した。 1996年の大統領選挙(英語版)にも出馬したが、二度目の投票で議会議長ペトル・ルチンスキーに競り負けて国中を驚かすこととなった。
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