モルドバの独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:23 UTC 版)
ソビエト連邦の弱体化を受け、1988年2月、キシニョフで最初の未認可デモが行われた。民衆は連邦政府に敵対的になり、ロシア語に代わりモルドバ語(ルーマニア語とほとんど同じ)を公用語とするよう要求した。 1989年8月31日、4日前のキシニョフにおける60万人規模の大規模なデモ行進の影響を受け、モルドバ語がモルダビア・ソビエト社会主義共和国の公用語となった。 1990年、最初の国会議員選挙が自由選挙で行われた。候補者に野党も含まれていたが、勝利したのはその野党だった。フロントゥル・ポプラル(Frontul Popular:人民戦線)の指導者の一人、ミルチェア・ドルク (Mircea Druc) による政府が組織された。モルダビア・ソビエト社会主義共和国はソビエト社会主義共和国・モルドバ (SSR Moldova) となり、のちにモルドバ共和国となった。 1991年、モルドバ共和国が独立。国境線は1940年8月2日のモルダビア・ソビエト社会主義共和国成立時からほとんど変更されていない。
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