ソビエト連邦崩壊・モルダヴィアSSRとは? わかりやすく解説

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ソビエト連邦崩壊・モルダヴィアSSR

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:10 UTC 版)

沿ドニエストル共和国」の記事における「ソビエト連邦崩壊・モルダヴィアSSR」の解説

1950年代から1980年代にかけては、モルドバの独立主義抑えられていた。しかし1980年代ミハイル・ゴルバチョフペレストロイカ政策により、ソビエト連邦地域レベルでの政治的自由化が進んだ。この不完全な民主化は、排他的な民族感情政治勢力として力を得る契機となった当地域には多くロシア人ウクライナ人居住していたが、こうしたモルドバ民族主義昂揚に伴い数々モルドバ化政策(モルドバ語唯一の国語としての制定ルーマニア模した国旗・国歌制定)が打ち出されることとなった。 この新し政策への不満は、ティラスポリなどスラブ系住民多数占め都市部であるトランスニストリアより目見える形で表れた東部ティラスポリでは保守派が、キシナウでは共産党モルダヴィアソ連内にとどめようとし、内戦繰り返しながら独立を目指していた。 1989年8月31日モルドバ最高会議モルドバ語公用語として採用しロシア語副次的な目的にのみ使用することを採択した。さらにモルドバ語ソ連時代キリル文字からラテン文字に戻すこと、モルダヴィアSSRルーマニア言語的アイデンティティ共有宣言したモルダヴィアSSRスラブ系住民によって設立されたイェディンストヴォ(統一運動は、ロシア語モルドバ語両方同等の地位与えるよう迫った。しかしトランスニストリアにおける民族・言語構成モルダヴィアSSR他の地域とは大きく異なっており、ロシア人ウクライナ人割合が特に高くモルドバ人一部含め全体的にロシア語母語とする者が多かった1990年6月モルダヴィアSSRソビエト社会主義共和国モルドバSSR Moldova)への国名変更行い6月23日主権ならび共和制宣言した。これに対して同年9月2日ドニエストル川左岸ロシア語住民ティラスポリ臨時国会開催し、「沿ドニエストル・モルダビア・ソビエト社会主義共和国」(Pridnestrovian Moldavian Soviet Socialist Republic沿ドニエストルSSR)の創設宣言してモルドバからの分離目指した。 事態がさらにエスカレートするのを防ぐため、当時ソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフは、モルダヴィアSSRによる少数民族市民権制限紛争の原因として挙げながらも、沿ドニエストルSSR宣言法的根拠欠いているとし、1990年12月22日大統領令でそれを無効とした 。それでも実質的な行動取られず、沿ドニエストルSSR当局徐々に地域コントロール確立していくことが出来た1991年8月ソ連クーデター未遂ののち、8月25日沿ドニエストル最高会議が、「沿ドニエストル地域独立に関する宣言」を採択しソ連からの独立宣言した

※この「ソビエト連邦崩壊・モルダヴィアSSR」の解説は、「沿ドニエストル共和国」の解説の一部です。
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