ソビエト連邦崩壊と党分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/04 05:23 UTC 版)
「カナダ共産党」の記事における「ソビエト連邦崩壊と党分裂」の解説
殆どの共産主義政党と同様、ソビエト連邦の崩壊後危機を迎えた。当時ジョージ・ヒューイソン書記長体制(1988年 - 91年)の下、共産党並びに同党の一般党員の一部が、党の指導原理としてのマルクス・レーニン主義を放棄し、党自体を解散した上で、これに変わる左派・社会民主主義的団体の創設を模索し始めたのである。 長引くイデオロギー的政治的危機は党内に混乱を齎しただけで、最終的にはヒューイソン率いる中央委員会の多数派がマルクス・レーニン主義の放棄を決定した。しかし、ミゲル・フィギュエロアやエリザベス・ローリー、元党幹部のウィリアム・カシュタンら中央委員会の少数派が、この決定に異議を申し立てる。 1990年秋の第28回党大会にて、ヒューイソン派は中央委員会の主導権を何とか維持したものの、翌春までには、党員の間でヒューイソン指導部の改良主義的な方針が批判されるようになった。ブリティッシュ・コロンビア、オンタリオ両州で1991年に開かれた党大会では、いずれもヒューイソンへの不満が爆発、ヒューイソン派の関係者が放逐されている。 ヒューイソン派は同年8月27日、ローリーら方針に批判的な11名の党幹部を除名処分に付すとともに、オンタリオ州委員会を解散に追い込んだ。ただ、地方支部並びに委員会の大多数は除名に反対しており、深まる危機を民主的な手法で解決するべく、臨時党大会の開催を要求。10月の中央委員会会議でも抗議が相次いだが、臨時党大会は開かれなかった。 残された選択肢は、ローリーら除名された党員がヒューイソン派と法廷で争うしか無かったが、両者による数ヶ月にわたる交渉の後、何とヒューイソン指導部が離党することになったのである。ヒューイソン派の離脱後初の党大会が1992年12月に開かれ、代議員は共産党の存続を承諾した(それ故大会の名称は第30回共産党大会となった)。代表委員はヒューイソン派が口火を切った改良主義的政策を拒絶し、マルクス・レーニン主義組織として再出発を宣言、併せてフィギュエロアを新党首に選出した。
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