ソビエト連邦建国と日本
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「日露関係史」の記事における「ソビエト連邦建国と日本」の解説
1917年にロシア革命が勃発してロシア帝国は打倒され、日露協約は廃棄されることになる。 1917年9月のロシア帝国の崩壊後、ロシアでは中央でソビエト政権を樹立したボリシェヴィキの赤軍と、それに反対して地方で抵抗を続ける白軍の間で内戦が続く混乱期に入った(ロシア内戦)。極東への共産主義の波及を怖れる日本は、同じくソビエトを敵視するイギリス・フランス・イタリアと歩調を合わせ、1918年1月に居留民保護を名目としてロシア極東の主要都市ウラジオストクに艦隊を派遣した。3月には、ロシアが連合国を無視してドイツとブレスト=リトフスク条約を締結し、日本は中国と日支共同防敵軍事協定を結んだ。さらに内戦によりシベリアで孤立したチェコ軍団救援をアメリカが提案したことを受け、8月12日に日本軍は上陸を開始した。ロシア帝国の消滅を受けてロシア勢力圏の北満州(外満洲)・沿海州へと勢力を広げる野心をもっていたとされる日本は、これにはじまるシベリア出兵に7万人以上の兵士を送り込んだ。 この日本の過大な出兵の結果、内戦への協調干渉を断念したアメリカは出兵を打ち切り、日本も1919年から徐々に撤兵を開始した。しかし、同年には日本軍の守備隊がパルチザンと衝突し、日本側は守備隊と居留民を殺害される尼港事件が起こって犠牲を払う。日本はこの事件をきっかけに、さらに北樺太まで出兵を広げるが、結局ソビエト政権の打倒はならず、1922年12月にソビエト連邦が建国され、ソビエトが沿海州に置いた緩衝国の極東共和国もソ連に併合されるに至る。同年、日本はようやくシベリアから完全撤兵するが、列強の一部がソビエト連邦の承認、国交樹立に動く中で関係回復は進展しなかった。また、シベリア撤兵後も石油・石炭資源の埋蔵が期待されていた北樺太には1925年まで駐留を維持していた。 しかし、隣国であるソ連との関係断絶は日本経済界への打撃も強く、また1919年7月のカラハン宣言に基づくソ連の中国への影響力増大から日ソ国交正常化を行ってこそ大陸での日本の権益を守れるとの主張もあらわれた。そのため日本側も国交正常化に前向きとならざるを得なくなり、1925年1月20日に北京で日ソ基本条約を締結した。 一連の動乱の中で、革命に反発してロシアを出国した数多くのロシア人たち、いわゆる白系ロシア人が日本に大量に流入し、ロシア・正教会の文化を日本にもたらした。1917年に元露国大使館内において露西亜人協会が設立され、1918年には会員数300名に達したとされる。また、1920年3月にはユダヤ系ロシア人のアナトリー・ヤコヴレヴィチ・グートマンが反過激派新聞「デイロ、ロシー」(Дело России)の発行を開始し共産主義の危険性を訴え、同年春には在日本露西亜国民統一会の設立を行った。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}なお、シベリア出兵によってユダヤ陰謀論の元となるシオン賢者の議定書が日本に伝わった。この本の存在により日本はユダヤ研究を始め、むしろ日ユ同祖論を展開してユダヤ人を保護する方向へと向かった。[要出典] 同じ頃、日本の社会主義者は在米日本人社会主義者団が中心となって、コミンテルンと接触しはじめた。
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