メンバーについての経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 20:25 UTC 版)
「ドンキーカルテット」の記事における「メンバーについての経緯」の解説
祝以外は初期のザ・ドリフターズの元メンバーだった事もあり、演奏経験が豊富であった。祝が加入後に5人組 = クインテットとなったものの、グループ名は変更せずにそのまま「ドンキーカルテット」で解散するまで活動した。 小野ヤスシ(1940年2月11日 - 2012年6月28日 72歳没) 鳥取県の出身。メンバーのリーダーでありボーカル・ギター兼ベースを主に担当した。自身のキャッチフレーズを「鳥取県が生んだ自称スーパースター」としていた。他にネタに入る際や、コントが始まる時に用いる台詞として定番になっていた「一発ぶちかましてご覧に入れます」がある。なお小野がリーダーというのは名目上の事で、実際のメンバーとの間は対等の立場で接し、特に先輩風を吹かすような事は無かったという。ドンキーカルテット解散後は、単独でマルチタレントとしてテレビ番組の司会や、バラエティー等に出演して活躍する。主に出演していた代表の番組として、フジテレビ系で放送していた『スターどっきり(秘)報告』があった。晩年はアサヒ緑健のPR番組の司会や、旧知の仲で大親友でもある加藤茶、仲本工事とコミックバンド「加トちゃんバンド」を組んで公演を行っていた。またミッキー安川と付き合いが長く、ラジオ番組にもゲスト出演する事があった。また年末に行っていたチャリティーショーにも参加していた事もあり、交友を深めていた。2012年6月28日、腎盂がんのため死去。72歳没。グレッチ・ギター演奏の達人でもあった。 生い立ちと解散後詳細は「小野ヤスシ」を参照 飯塚文雄(1940年11月23日 - 2003年3月27日 62歳没) 東京都の出身、立教大学経済学部を卒業。フィドル(バイオリン)を担当していた。元々はジミー時田らと活動し、ザ・ドリフターズに参加して活躍していたが後に離脱し、小野・吉田・猪熊・飯塚の4人で新たなコミックバンドである「ドンキーカルテット」を結成した。ドリフに参加する以前にもカジュアルスというバンドでカントリー・ウェスタンミュージックの経験があった為、この分野の造詣が深い事でも知られていた。ドンキーから離れた後は日本テレビ系深夜番組である『11PM』の水曜日にレギュラー出演することになり、レポーターに抜擢され自身の知名度を上げる。音楽活動の方も引き続きカントリーミュージックを中心に行い、晩年は飯塚文雄&キープレンジャースを率いて活躍していた。2003年3月27日に死去した。62歳没。 新宿・歌舞伎町にカントリー音楽のライブハウスである「Liberty Bell」(リバティ ベル)を1974年に開業し、自らオーナーを務めていた。その後歌舞伎町の店は閉店し、渋谷区笹塚に移転し再開店した。2003年に飯塚が逝去した後も営業は継続しており、縁の楽器や飯塚本人を模した看板人形や帽子等が展示され、自由に鑑賞する事が出来た。 ジャイアント吉田(1936年1月25日 - 86歳) 東京都の出身。本名・吉田一男。ボーカル・ギター兼ベースを担当していた。1958年に日本大学経済学部を卒業後、ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズに参加し、活動を開始する。いかりや長介とはその時からの間柄で旧知の仲であり、親友でもあった。しかしザ・ドリフターズ分裂時に残留はせず、いかりやのワンマン体制ぶりに反発し、独立を決めていた小野と行動を共にしている。1970年に発売されたドンキーカルテット唯一のヒット曲となっている『宮本武蔵』では作詞・作曲およびパーカッションとリードボーカルを担当していた。ギャグの受けと間合い台詞は「ひどいなぁ」である。ドンキー解散後は猪熊・祝と3人で「シンフォニックマッド」を結成。1970年代末期頃に西ヒトシ・ジョニー高田ら4人のジャイアント吉田と、ブラックジャックを経て、1980年代末期に5人組のジャイアント吉田とドンキーズを猪熊、やまだマサらと結成した。メンバーは流動的で活動を休止した期間もあるが、途中病気療養で休養する事になる猪熊に代わってばんきんや、ニック下平らを加え、現在も活動中である。1973年には、この年に誕生しヒットした思考系ボードゲームである『オセロ』のコマーシャルに吉田が起用され、当時話題にもなった。2010年頃からばんきんやのバンドバンバンGとの共演活動も行い、カントリーミュージックの客演や、発明家を自称している。一時期はハワイアンのライブハウスも経営していたが閉店し、その後は千葉県鴨川市で「ラハイナ」という名前でハワイアンスタイルのレストランを経営していた。他には自身の特技でもある催眠術に活路を求め、現在は芸能界の傍ら催眠術師として執筆活動や催眠法のクリニック等、多方面に活動している。 吉田自身は「ジャイアント」という芸名で大柄を印象付けているが、実際は小柄である。若い頃は武術に励んでいたために禅・瞑想・気・催眠へと関心を持つことになるが、元々は太気拳の澤井健一の初期(3番目)の門下生でもあった。 猪熊虎五郎(いのくま とらごろう、1932年 - 2001年11月4日 69歳没) 熊本県の出身。本名・吉岡弘。バイオリン・キーボード兼ベースを担当していた。熊本工業高校を卒業。元々はザ・ドリフターズに在籍して活躍していた。大きな体格と坊ちゃん刈りのような整ったしっかりとした綺麗な髪型をしており、常に礼儀正しく黒縁の眼鏡を掛けた姿も自身の個性でもあり愛嬌もあった。メンバーの中で体格が良く目立った存在で、時折長身な猪熊と小柄なジャイアント吉田と比較されることもあった。甲高い声と独特な喋りが特徴的で、彼の持ち味の一つで個性かつ素質でもあった。彼が話し始めると少しトボけた表情と、その奇妙な面白い声を聞くだけで笑い出す人がいるほど受けていた。ドンキーカルテット解散後は、単独でタレント活動を始めた小野を除いた猪熊・吉田・祝と3人で新たに「シンフォニックマッド」を結成し、再活動を始めた。その後祝は加入せずにそのまま芸能界を引退したが、吉田と共に新たなコミックバンドである「ドンキーズ」を結成した際も参加しており、積極的な活動を見せている。更に個性的かつ奇抜で斬新な声を活かして声優としても活躍するようになった。しかし晩年は病気療養中だったこともあり、健康や体調面を考慮して次第にテレビや舞台などの出演からは退くようになり、不定期にバラエティ番組などにゲストとして出演する形になっていった。2001年11月4日に死去、69歳没。 祝勝(いわい まさる、1944年5月 - 78歳) 神奈川県の出身で、本名は岩井勝。ベース兼ドラムを担当していた。日本大学在学中は学生バンドマンとして活躍する。大学を卒業後に芸能界入りし、後にドンキーカルテットに参加した。祝の唯一の定番芸として演奏中やコント、舞台進行中にもかかわらずその流れを完全に無視して自分の世界の中へ入ってしまい、舞台端や物陰で座り込みながら自分勝手に弁当を開いて黙々と食べ始めてしまうという自己中心的であると共に、不思議な事をする場面があった。そのあまりにも身勝手で非常識なふざけた行為を他のメンバーに見つかり叱られてしまうのが定番である。これは祝が最も受けた芸でもあり、見せ場の一つでもあった。シンフォニックマッド解散後、後に吉田・猪熊が新たに発足したコミックバンドの「ドンキーズ」には参加せず、そのまま芸能界を引退した。その後は会社を設立し、現在は経営者として活躍中である。
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