メッテルニヒによる学生運動の弾圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「メッテルニヒによる学生運動の弾圧」の解説
1819年3月には、ブルシェンシャフトの自由主義と愛国思想を雑誌で揶揄していた作家アウグスト・フォン・コツェブー(August von Kotzebue)が、ロシアのスパイとして過激派の学生に暗殺された。この事件以後、メッテルニヒは1819年9月20日のカールスバート決議で学生運動と自由主義運動の弾圧を決定し、出版法による検閲制度、大学法、捜査法などによる革命運動の取締りをドイツ連邦全土で強化した。マインツには革命的陰謀や煽動的結社運動を監視する委員会が置かれた。フリースやアルントやヴェルガ−兄弟など著名な教授は大学から追放され、ヤーンは大逆罪で幽囚され、シュタインやグナイゼナウら改革派も政界から追放された。1848年の3月革命まで出版は制限され、新聞や雑誌の発行部数は激減したが、出版に代わって祝典や集会が盛んに行われるようになった。また急進派は地下に潜り、1833年4月にはフランクフルトで衛生兵襲撃事件が起こった。 飢饉と食料危機を契機として1819年8月から10月にかけて、プロイセン以外のヴュルツブルクなど全ドイツの各州、ボヘミア、アルザス、オランダ、デンマークで反ユダヤ暴動が発生し、ユダヤ人が暴行を受け、シナゴーグや住宅は略奪された。暴動では1096年に十字軍兵士が叫んでいたとされる「ヒエロソリマ・エスト・ペルディータ(Hierosolyma Est Perdita)」(エルサレムは滅んだ)という言葉に因んで「Hep! Hep!」という合言葉が使われたため「ヘップヘップ暴動」もいう。この暴動で、アメリカ合衆国へのユダヤ人移住が活発になった。ユダヤ教徒でサロン主催者のラーエル・ファルンハーゲン=レーヴィネは暴動の責任は作家アルニムやブレンターノ一派にあると見た。 1819年11月からの連邦議会でメッテルニヒはドイツ連邦は自由都市をのぞいて君主国であり、各邦はドイツ連邦国元首のもとに統轄されるというウィーン最終規約を定めた(1820年5月15日発効)。ドイツ各邦を連邦政府の監視下におく君主制原理が貫徹された。 1819年、フント・ラドヴスキは、16世紀の改宗ユダヤ人プフェファーコルンと同題の『ユーデンシュピーゲル(ユダヤの鑑)』を刊行し、ユダヤ男は去勢し、ユダヤ女は売春婦になれと主張した。『ユダヤの鑑』という同題の著作は、1862年にヴィルヘルム・マル、1883年にルーマニア出身の改宗ユダヤ人ブリマン、1884年にプラハ大学教授アウグスト・ローリング神父、1921年にドイツ民族防衛同盟員の詩人フィッシャー=フリーゼンハウゼンが出版した。 1820年、作家アヒム・フォン・アルニムは小説「世襲領主」で、世襲領主が零落するなか、路地から這い出てきた強欲なユダヤ人を描いた。アルニムは義兄のクレメンス・ブレンターノとともに、ベルリンで「ドイツキリスト教晩餐会」を開催し、ユダヤ人は改宗者であっても入会禁止とした。 1820年、オスマン帝国からの独立を目指してギリシアが独立戦争をはじめた。ギリシアでは、フランス革命やドイツロマン主義の影響でナショナリズムが台頭していた。当初ウィーン体制下のヨーロッパ諸国は正統主義によってオスマン帝国を支持したが、ロシアがロシア正教を攻撃したオスマン帝国へ国交断絶を通告し、1828年にロシアは露土戦争を始めた。ロシアの影響拡大を恐れたイギリスやフランスも介入して、1830年にロンドン議定書でギリシアの独立が承認された。 1823年にはベルリンのユダヤ人の半数がキリスト教に改宗した。 1824年、バイエルン王国皇太子ルートヴィヒ1世はドイツの偉人を祀ったヴァルハラ神殿を建設した。ヴァルハラ神殿にはドイツ2000年の歴史を示す偉人、例えばローマ帝国によるゲルマニア征服を阻止したアルミニウスから、西ゴート族の王アラリック1世、フランク王国の王クローヴィス1世、ベートーヴェンなどの銘板や胸像が収められている。 1820年代後半以降には、出版に代わって祝典や集会が盛んに行われるようになり、デューラー300年記念祭(1829)、ハンバッハ祭(1832)、グーテンベルク祭(1837、1840)、シラー記念祭(1839 )、ドイツ合唱祭(1845)などが開催され、政府による取締を逃れてドイツ民族の英雄が称賛され、ドイツ統一と国民連帯を要求することができた。また1841年からは記念碑が作られる運動が高まり、ジャン・パウル、モーツァルト、ボニファティウス、バッハ、ゲーテなどの記念碑が作られていった。 1830年と1834年にもドイツで反ユダヤ暴動が発生した。
※この「メッテルニヒによる学生運動の弾圧」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
「メッテルニヒによる学生運動の弾圧」を含む「反ユダヤ主義」の記事については、「反ユダヤ主義」の概要を参照ください。
- メッテルニヒによる学生運動の弾圧のページへのリンク