ポピュリズムに対する歴史家の見方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/11 09:26 UTC 版)
「人民党 (アメリカ)」の記事における「ポピュリズムに対する歴史家の見方」の解説
1890年代以降、歴史家達はポピュリズムの性格を活発に議論してきた。多くの学者達はリベラルであり、ポピュリストが銀行や鉄道を攻撃したことを称賛した。ある学者は、1890年代のポピュリストと、1900年から1912年の進歩主義派の間に密接な関連を見ているが、ブライアンを除いて進歩主義指導者の大半は激しくポピュリズムに反対していた。セオドア・ルーズベルト、ジョージ・W・ノリス、ロバート・M・ラフォレット・シニア、ウィリアム・アレン・ホワイトおよびウッドロウ・ウィルソンはポピュリズムに強く反対した。ニューディール政策時代にポピュリズムの考え方が民主党に取り入れられたかについては議論があった。ニューディールの農業政策は、ヘンリー・A・ウォレスのようにポピュリズムとは何の関係も無かった専門化が立案した。 歴史家の中にはポピュリストを、前を見据えたリベラルな改革者と見る者もいる。長閑でユートピアのような過去を掴み直そうとした反動家だと見る者もいる。アメリカ人の生活を再建しようとした急進派と見る者がおれば、経済的に追い込まれて政府の救済を求めた農本主義者と見る者もいる。最近の学説では、アメリカ初期の共和主義にポピュリズムが負うものがあると主張している。クラントンは、ポピュリズムが「ジェファーソン、ジャクソンおよびリンカーンのそれぞれの民主主義のはっきりした印象を留める政治的な伝統を通じて濾過されてきた、啓蒙思想から派生した古き急進的な伝統を最後に表現したもの」だと主張した(1991年)。その伝統は、金ぴか時代に支配的だった現金という中核思想の上に人権を置くものだった。 フレデリック・ジャクソン・ターナーと西部歴史家の継承者は、ポピュリストをフロンティアの消滅(1890年とされている)に反応したものとして、次のように説明した。 農民同盟やポピュリストが鉄道を国有化するよう求めたことは、最後のフロンティアで開拓農家が行った同じ行動の一面である。その提案は西部開拓が進行するに比例して取り入れられる度合いを増していった。全体として捉えれば、ポピュリズムはアメリカ生まれの古きパイオニア概念の顕現であり、その目標を有効にするために中央政府を使う用意が増していったという位置づけである。 ポピュリズムに関してターナーの弟子で最も影響力を持ったのはジョン・D・ヒックスであり、概念の上に経済的実用感を強調している。すなわちポピュリストを政治的利益団体として表現し、生産に関与しない投機家が寄生するアメリカの富の公正な分け前を要求した持たざる者達だということである。ヒックスは、カンザス州の農家の多くを破滅された干ばつを挙げたが、金本位制、高率利子、抵当差し押さえ、および高い鉄道料金によって引き起こされた金融操作と生産価格の低下も指摘した。そのようなものに怒ったポピュリストが解決策として人民による政府の支配を訴えたことは、後の共和主義の学者が指摘したところである。 1930年代、C・バン・ウッドワードが南部の地盤について、尊大な金持ちに対する貧乏黒人と貧乏白人の連携の可能性を見ていた。ジョージア州の政治家トマス・ワトソンはウッドワードの英雄だった。しかし、1950年代、リチャード・ホフスタッターのような学者は、現代性の挑戦に対して、後を振り返る農夫達の不合理な反応としてポピュリズム運動を描いた。ホフスタッターは、進歩主義者に至る第3政党の繋がりを軽視し、ポピュリストは地方の共謀の精神を持った人々であり、移民排斥主義、反ユダヤ主義、反知性主義、イギリス恐怖症を表に出した、罪の転嫁に走る人々だと論じた。反近代的ポピュリズムの反対にあるものがホフスタッターのモデルでは近代化を行う進歩主義者であり、セオドア・ルーズベルト、ロバート・M・ラフォレット・シニア、ジョージ・ノリス、ウッドロウ・ウィルソンなど進歩主義の指導者がポピュリズムの激しい敵であると指摘した。ただし、ウィリアム・ジェニングス・ブライアンだけはポピュリストと協力し、1896年には大統領候補者指名を受け容れた。 マイケル・ケイジンが1995年に出した「ポピュリストの説得」では、1930年代のチャールズ・カフリン神父や1960年代のジョージ・ウォレス知事のような代弁者に表されている修辞的な様式にポピュリズムが影響を与えたと論じた。 ポステルは、ポピュリストが伝統主義者で反近代化論者だという考え方に反論している。ポステルは全く反対に、ポピュリストが積極的に意識して進歩的な目標を追求したと論じた。彼等は科学と技術知識の融合を求め、高度に集権化された組織を作り、大規模な法人事業を始め、州を中心とする改革の道を進めた。何十万という女性がポピュリズムに関わり、より近代的な生活、教育、学校や事務所での職を求めた。労働運動の大きな部分がポピュリズムを解答だと考え、規制された状態に弾みを与える農夫との政治的連携を図った。しかし、進歩主義は恐ろしい、非人間的なものでもあったと、ポステルは述べている。白人ポピュリストは、人種差別問題、中国人排斥および「分離すれども平等」の屈辱と残酷さについて社会的ダーウィニズムの概念を捉えた。
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