ベルギーの戦略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:58 UTC 版)
連合国からのベルギーの正式な脱退後、ベルギーは迂闊に参加することによりその中立性が危ぶまれることを恐れ、イギリス、フランスの軍関係者との公式な会見さえも拒否した。また、ベルギーはドイツの侵入は回避できないと考えており、それはエバン・エマール要塞のような防衛線で効果的防御が行えると硬く信じていた。さらにベルギーは1933年1月、ドイツでアドルフ・ヒトラーが首相になったことにより、ベルギー・ドイツ国境に沿って防衛線を再建する処置をとった。そしてベルギー政府はドイツが国際連盟からの脱退、ヴェルサイユ条約の拒絶、ロカルノ条約違反などを行うにつれ、ドイツへの警戒を増していた。政府はナミュールとリエージュにおいて防衛を近代化することへの財政支出を増やし、新たな防衛線はマーストリヒト - ボア・ル・ デュク運河沿いに形成され、マース、スヘルデ、アルベール運河の防衛線に加えられた。東側の防衛線は主に道路の破壊に基づいていたが、主な防衛部隊は自転車部隊である「Chasseurs Ardennais」に委ねられた。1935年までに、ベルギーにとっては防衛は完全なつもりであったが、それでも防衛が十分でないことは予想されていた。大部分の機動予備戦力は戦線後部を守るために必要とされており、そのため、ドイツ軍による攻撃からの防衛が十分でないと考えられていた。さらに労働力も必要としていたが、長期の兵役にも人材を必要としていた。しかし、軍のための訓練は決して紛争に加わらないようにしてほしいという連合軍の要請、それと同様にベルギーの軍事責任を増やしてしまうという国民の要求により拒絶された。 1936年10月14日、国王レオポルド3世は国民、および政府に国防を強化するよう要請を行うため、大臣らが集まった会議において演説を行った。レオポルド3世はベルギーのさらなる再軍備のため、ベルギー軍に生じている3つの問題点を説明した。 ドイツの再軍備はイタリア、ソビエト連邦(旧ロシア)の完全再軍備はスイス、オランダなど平穏であった地域に軍備を行わせ、特別予防措置をとらせる事態に至っていること。 飛行機と部隊の機械化による技術進歩により、戦争に大きな変化が見られ、武力紛争の初期においてはその力、機動力に委ねられることになり、ベルギーのような小さな国々は警戒を怠ることができないこと。 ベルギーの不安はラインラントへのドイツの進駐により、ドイツ軍がベルギー国境近辺に存在することを意味しており、これにより、電撃戦で占領される可能性が出ていること。 1937年4月24日、ドイツの攻撃が直接ベルギーだけに用いられるのか、また他の国々への侵攻への基地にされるかどうかに関係なく、フランス、イギリスにとってベルギーの安全性が西側連合軍にとって優先事項であり、したがってフランス、イギリスはベルギー国境へ攻撃が行われた場合、支援を行うとの公式宣言を行った。イギリスとフランスがベルギー防衛に対する義務を維持している間、イギリス、フランスはドイツがポーランドへ侵攻した場合、ベルギーが相互援助を行うというロカルノ条約から解放した。 ベルギーは攻撃を受けた場合、軍に即時の動員をかけて準備するために時間を稼ぐという秘密の協定を連合軍と結んでいた。 ベルギーではドイツがイギリス軍を含む連合軍より軍事的に優勢と考えており、連合軍に関わることにより、ベルギーが戦場になることも考えられていた。結局、ベルギー、フランスの間では互いに期待していたことについて混乱している状態で戦闘が始まっていた。フランス軍がベルギーを支援するためにベルギーへ向かう間、ベルギーはアルベール運河とマース川沿いに沿って防衛線を保持するつもりであったが、ガムランはデイル計画をそれら遠方まで保持することに消極的であった。ガムランは第一次世界大戦中の1914年同様にベルギーが防衛線から押し戻され、アントウェルペンに退却することを心配していた。実際に国境を防衛しているベルギー軍は南方へ撤退し、フランス軍と結びつくことになっていたが、この情報はガムランには伝えられなかった。ベルギーにおいてはデイル計画は利点が存在しており、それはスヘルデ防衛線へ限られた連合軍部隊が到着するか、ドイツ軍がフランス、ベルギー国境に到着するかした場合、デイル川への移動はベルギー国内の戦線を70から80km減らすこととなり、戦略的予備をより多く用意することができることとなる点であった。それにより、ベルギー東部の産業地帯も保護することとなり、オランダにおいて約20個ベルギー師団を吸収することができるという長所が存在していた。のちのフランス敗退後、ガムランはこれらの議論を使用してデイル計画を正当化した。 1940年1月10日、メヘレン事件(Mechelen Incident)として知られる出来事では、ドイツの連絡将校ヘルムート・ラインベルガー(Helmuth Reinberger)少佐が搭乗していたメッサーシュミットBf 108がマース近辺のメヘレンに不時着した。ラインベルガーはドイツ軍による西部ヨーロッパへの侵攻計画を所持しており、ドイツ軍は1914年に行われたシュリーフェン計画の繰り返しを行い、ベルギー、オランダ(これは計画を拡大して追加されていた)を通過してフランスに進撃することになっていたが、これはガムランが予想したものと一致していた。計画は海軍、空軍の攻撃により、基地となる低地諸国の占領に基づいており、まさに土地収奪であった。 ベルギーはこれが策略ではないかと疑ったが、後に計画は正しく実行された。ケルンにあったベルギー情報部と駐在武官はドイツ軍がこの計画に基づいてベルギー侵攻を始めるのではなく、ベルギー領土のアルデンヌを通過して攻撃することを示唆しており、さらに進撃してカレーへ向かい、ベルギー国内で連合軍を包囲するとしていた。ベルギーではドイツが連合軍を殲滅するために決戦を試みると正しく予想しており、ドイツ軍のエーリッヒ・フォン・マンシュタインによって考えられた計画をベルギーは正しく予想していた。 ベルギー軍の最高司令部はこれらの懸念をフランス、イギリスに警告した。ベルギー軍司令部はデイル計画上で危険な状況にあるベルギーが重要な位置を占めるのではなく、連合軍が形成する戦線の左側面全体と化すことを恐れていた。レオポルド国王とその副官ラウール・ヴァン・ オーベルストラーテン大将は3月8日、4月14日にフランス軍司令部およびガムランに彼らの懸念について警告していたが、結局フランスはこれを無視した。
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