ベルギーの戦いと降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 00:56 UTC 版)
「レオポルド3世 (ベルギー王)」の記事における「ベルギーの戦いと降伏」の解説
「ベルギーの戦い」も参照 1940年5月10日、ドイツ軍が宣戦布告無きまま、ベルギーに侵攻した(ナチス・ドイツのフランス侵攻の第一段階である『黄色作戦』)。初日にエバン・エマール要塞の戦いでベルギー最大の要塞を陥落させられると、ベルギー軍は撤退し、国王はダンケルクでの抗戦を呼びかけ、兵士を鼓舞した。 オランダやベルギーがドイツ軍(A軍集団)低地地方で迎撃する間に、ドイツ軍(B軍集団)はベルギー南部~フランス東部のアルデンヌ高地を越えて侵攻したため、白・仏・英各軍は分断された。5月12日、アニューの戦いで、白仏軍と独軍による大規模な戦車戦で、ベルギーは「驚くほどの勇敢さ」をもって抗戦し、ドイツの進撃を遅延させて、ダンケルクからの英派遣軍の大陸撤退(ダイナモ作戦)を可能にした。 5月25日、西フランデレントルホウトのウィネンダル城(英語版)で、御前会議が開かれた。対独勝利の可能性があると信じた政府はフランスで亡命政府を組織して抗戦しようとした一方、国王は無条件降伏によりドイツ中心の新秩序の中でベルギーの立場を考えようとし、意見は一致しなかった。同日、英国王ジョージ6世に宛てた親書では、政府及び軍の最高責任者としてベルギーに留まることと、24日にジョージ6世が行った徹底抗戦を呼びかける演説に感銘を受けた旨を記した。ジョージ6世は政府と相談の上、亡命して抗戦するよう激励した。 5月27日、レオポルド3世はドイツとの交渉を開始し、翌5月28日にレオポルド3世は無条件降伏の要求を受諾。以後ラーケン宮殿(英語版)に幽閉された。幽閉中の1941年、リリアン・バエルと再婚するが、彼女が平民であったため王妃とは認められることは無く、王位継承権も有しない(貴賤結婚)。しかし、後にこの結婚をヒトラーに祝福されたことが、強く批判される。 一方の閣僚達はフランス、さらにロンドンへ亡命し、レオポルド3世をベルギー亡命政府の国王とは認めないと宣言した。チャーチル英首相や英国世論は、レオポルド3世の降伏を裏切りとして非難した。しかし、ジョージ6世は、電撃戦で攻撃を受け亡命政権を樹立したオランダ王国、ルクセンブルク大公国がともに女性君主で軍の最高指揮官でなかったのに対し、レオポルド3世が最高指揮官として兵士や国民を見捨てて亡命できない事情を理解し、ガーター勲章を含む栄典を剥奪しなかった。 レオポルド3世はあくまで「中立」の意向であり、占領下のベルギーでナチスドイツの傀儡として国を統治することも拒否していた。
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