ベルギーの反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 01:34 UTC 版)
1月10日、ベルギー側は文書の確実性を疑っていた。文書は即座にブリュッセルで翻訳された。文書はラインベルガーによって燃やされていたため判読が難しい箇所もあったが、ベルギーやオランダに対する攻撃の概略は残った部分から明白だった。しかし、攻撃の日付までは言及されていなかった。また、残った文書の大部分が第7航空師団に関することであった。文書の信頼性に疑念を持っていたベルギーだが、イタリアのガレアッツォ・チャーノから、ドイツ軍が1月15日付近にベルギーを攻撃するかもしれないと警告を受けたため、ラウル・ファン・オーフェルストラーテン(フランス語版)将軍は1月11日に文書の内容は基本的に信頼できるとした。その日の午後、ベルギー国王レオポルド3世はこのことを国防大臣のアンリ・ドニ将軍やフランス総司令官モーリス・ガムラン大将などに伝えることとした。イギリス海外派遣軍からもドイツに対する警告を受けた。レオポルドは個人的にオランダ妃ユリアナやルクセンブルク大公シャルロットへ電話をし、「気を付けてください、天候が危険です。」、また「風邪に注意してください。」と伝えた。あらかじめ決められていたこの言葉は、ドイツ軍の攻撃が差し迫っていることを表すものだった。
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