ベルギーの植民地支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 07:04 UTC 版)
ベルギーによるコンゴの植民地化(英語版)は19世紀後半に始まった。国王レオポルド2世はベルギーの国際的な地位と威信の欠如に不満を感じ、当時はまだ大部分が未調査のままであったコンゴ盆地周辺の植民地拡大策を支援するようにベルギー政府を説得しようとした。植民地拡大に消極的なベルギー政府との考えのズレは最終的にレオポルド2世が自分自身の利益のために植民地を統治する方向へと導くことになった。1885年に緩衝国になることを期待した欧米諸国から支持を受け、レオポルド2世の私領「コンゴ自由国」の成立が国際的に認められた。しかしながら、自由国政府当局によるコンゴの先住民に対する暴力や冷酷な搾取は強烈な外交圧力を生むことになり、1908年にベルギー政府が直轄で統治するベルギー領コンゴが成立した。 ベルギー政府によるコンゴの植民地支配は政府・キリスト教の伝道活動・民間企業の「三位一体」を基準としていた。大部分で政府と民間企業の利害が密接に結び付くことで、企業がストライキ破りをしたり、その他の先住民を支配するための障壁を取り除くのを政府が手助けする状況を形成した。徹底的な人種差別が行われ、第二次世界大戦が終結した後には社会的地位を問わず、多数の白人の移民がコンゴに移住したが、彼らは常に黒人より優れた待遇を受けることが出来た。 1940年代から1950年代にかけて、コンゴはかつてないレベルの急速な都市化を経験し、「理想的な植民地」作りを目指して国際的展開(英語版)プログラムも実施されるようになった。1950年代にはコンゴは他のアフリカ植民地と比較して倍以上の規模の賃金労働力を保持していた。コンゴのウラン(第二次世界大戦中にアメリカ合衆国が開発した核兵器に使用されたウランの多くがコンゴ産だった)を含めた豊富な天然資源は冷戦時代に入り、二大超大国となったアメリカ合衆国とソビエト連邦の両国がこの地域に大きな関心を寄せる要因にもなった。
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